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シアトルの歴史 ネイティブ・アメリカンから21世紀まで

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西はピュージェット湾、東は淡水湖のレイク・ワシントンに挟まれた都市、シアトル。少なくとも1万2000年前から先住民の部族が住んでいる土地に作られた街です。白人の入植が始まった1851年に開発が始まり、今では多様な産業の世界企業が集まる地域となりました。

もくじ

先住民の土地

パイオニア・スクエアにあるチーフ・シアトルの銅像

米国北西部の歴史研究サイト Historylink.org によると、今日のネイティブ・アメリカンの祖先は、シベリアから北米大陸に移動し、最後の氷河期の氷河が縮小するとともに、今のシアトルのあるピュージェット湾地域に入ったと考えられています。つまり、先住民は少なくとも12000年前から住み続けていることになります。

“Seattle” という市の名前も、白人が入植した当時にこの地域一体を統治していたスコ-ミッシュ族とデュワ-ミッシュ族の酋長の名前 “si?al’s”(シールス: 1780?-1866)を英語のアルファベットで表記したものです。

「彼らは複雑な文化的、社会的、経済的な構造を発展していましたが、1800年代半ばに始まった入植者の侵入で、その構造はほとんど失われてしまった。しかし、部族が生存し、尊敬され、再生するために闘う中で、その構造は現在も続いている」

1862年には、白人が持ち込んだ天然痘に感染した1万4000人以上の先住民が死亡し、人口が激減してしまいました。

現在、ワシントン州には連邦政府に認められている29の部族が住んでいます。詳細は American Indian COC の公式サイトWashington Tribes の公式サイトでご覧ください。

1700年代 イギリス海軍による調査

1775年4月に始まった独立戦争は、1783年にパリ条約の調印で正式に終結しましたが、広大な土地の西部を開拓するうえで、先住民の存在がありました。

1792年には、イギリス海軍のジョージ・バンクーバー提督がこの地域の海域を初めて調査しました。その際、バンクーバー提督は目についた山や海や川などにレーニアやセント・へレンズ、ピュージェットなど、自分の同僚や友人などの名前をつけてしまいました。現在もその名前が使われていますが、「この地に縁もゆかりもない人物の名前ではなく、先住民が使っていた名前に戻そう」という機運が高まってきています。例えば、マウント・レーニアはタホマ(Tahoma)という名前があります。

1800年代前半 政府による先住民迫害

今はカナダとなっている広大な土地などをめぐり、アメリカ合衆国と大英帝国は1812年から1814年にかけて戦争(War of 1812)をしました。その後、1818年10月20日、大英帝国とアメリカ合衆国は関係改善のため、ロンドンで「1818年条約」(Convention of 1818:Treaty of Joint Occupation)に調印し、北西部での平和的共存に合意しました。

その後、連邦政府は、1819年の「インディアン文明化基金法」(Indian Civilization Act Fund)や、1830年の「インディアン除去法」(Indian Removal Act of 1830)、1869年の「寄宿学校政策」(Boarding School Policy)など、さまざまな政策を通じて、先住民の排除を実行していきました。特に、先祖代々の土地を奪い、居住区に強制的に移住させたこと、また、何万人もの子どもを親から引き離して全寮制学校に入学させ、言語・文化・伝統などを受け継ぐことを困難にしたことなどによる影響は、現在も続いています。詳細は、そのトラウマと癒しと啓蒙活動を行うために設立された National Native American Boarding School Healing Coalition の公式サイトなどを参照してください。

1850年代 白人のシアトル地域への入植

この土地に最初に入植したのは、オレゴン州から北上してきたイリノイ州出身のアーサー・デニー氏(1822-1899)の一家と他4家族。1851年11月13日のことで、彼らはエリオット湾の西側、現在のウエスト・シアトルに New York と名付け、その後、チヌーク族の言葉で by-and-byを意味する Alki を付け加え、「New York-Alki」と名づけました。

1852年になると、デニー一行は、海風などの影響を受けにくいエリオット湾の東側に面した地域に移り、街の建設を開始しました。その地域はパイオニア・スクエアと呼ばれ、現在も1900年代初期に建てられた古い建物が並んでいます。

この新しい街に、この年に入植したデビッド・ドック・メイナード氏が、スコーミッシュ族とデュワミッシュ族の酋長の名前 “si?al’s”(シールス: 1780?-1866)を英語に置き換えた「Seattle」(以下、シアトル)と名づけました。

翌1853年にはピュージェット湾地域で最初の製材所が創業し、シアトルは木材の集散地として発展していきます。

1855年にワシントン州西部の先住民の土地の大部分が米国政府の所有下に置かれるポイント・エリオット条約(Point Elliott Treaty)が締結され、翌年には白人の入植者と先住民の戦争 『The Battle of Seattle』 が勃発しました。戦いは1日で終わりましたが、白人の入植に大きな影響を与えたと言われています。

1860年代 製材業を中心に街を形成

1861年:
後に University of Washington(ワシントン大学)となる Washington Territorial University が、シアトルのダウンタウンで開校しました。ワシントン大学によると、最初の講義が行われたのは11月4日で、当時のシアトルは人口250人の小さな村でした(1860年の国勢調査によると、キング郡の人口は302人)。当時の建物は、2021年時点でフェアモント・オリンピック・ホテルとなっています。

1863年:
シアトルの名前の由来となった、スコーミッシュ族とデュワミッシュ族の酋長シアトルが亡くなりました。シアトルで最初の新聞 The Gazette の発行が開始されました。後に、Post-Intelligencer という名前に変更されました。

1869年:
最初の白人の入植者が到着してから18年後、人口は約2000人に増え、シアトルは市となりました。当初のシアトルの主要産業は製材業が中心でした。

1870年〜1890年代 航路開設・鉄道開通、ゴールドラッシュ、産業の多様化

1870年:
シアトルの最初の市長、ヘンリー・アトキンスが就任しました。

1875年:
シアトルとサンフランシスコを結ぶ蒸気船が就航しました。

1880年:
シアトルの人口が3,533人に。

1883年:
ノーザン・パシフィック鉄道がシアトルに駅を開設し、人口は1880年代後半に急増しました。当初は製材業と石炭産業が主要産業でしたが、漁業、造船業、船舶業、卸売業が発展し、経済拡大と人口増加に貢献しました。

1889年:
大火災が発生し、ダウンタウンからパイオニア・スクエアにかけて25ブロックが焼失しました。後に「The Great Seattle Fire」と呼ばれるようになります。11月11日、ワシントン州はアメリカ合衆国の42番目の州となりました。

1890年:
シアトルの人口が42,837人に。

1891年:
シアトルの人口が50,000人を突破しました。

1893年:
二つ目の横断鉄道であるグレート・ノーザン鉄道がシアトルと中西部を結ぶ路線を開業しましたが、1893年に起きた不況(Panic of 1893)でシアトルも影響を受けます。ワシントン大学が、現在のキャンパスとなる土地を正式に購入しました。

1895年:
9月4日、ワシントン大学が現在のキャンパスに完成した最初の建物のデニー・ホールで、最初の講義を行いました。

1896年:
明治29年8月、日本郵船が横浜とシアトルを結ぶ定期航路を開設し、グレート・ノーザン鉄道と提携してアジアからの物資をシアトル経由で米国の他の地域に輸送するルートを実現。シアトルはアジアと北太平洋との貿易および船舶センターとしての地位を確立します。

1897年:
1897年にカナダのユーコン準州およびアラスカでクロンダイク川沿いおよび近くでの金が発見されると、シアトルはクロンダイクに近いことと、すでに確立されていた船舶ルートがあったことで、金鉱探鉱者の主要な拠点として急速に発展。蒸気船ポートランドがシアトルに到着し、クロンダイク・ゴールドラッシュによる好景気にあやかって街が発展していきます。

1898年:
現在のファースト・ヒルに、シアトル・カレッジが開校しました。後にシアトル大学となります。

1900年から第一次世界大戦

1900年:
1900年にはシアトルの人口が80,671人に増加しました。さらに2つの横断鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道とミルウォーキー・ロードシステムがシアトルに到達。市の人口が多様化し始めたのはこの頃で、ヨーロッパ、スカンジナビア諸国、アジア、アフリカ、ユダヤ人などがコミュニティを形成していきました。

1901年:
後に高級デパートメントストア『Nordstrom』となる靴屋『Wallin & Nordstrom』 が、4th Avenue & Pike Street で創業しました。創業者は、1887年に16歳でスウェーデンから米国に移住し、クロンダイク・ゴールドラッシュで資産を作ったジョン・W・ノードストロム氏と、シアトルの靴職人のカール・F・ウォーリン氏。

1903年:
シアトル・シンフォニーの最初の公演が行われました。

King Street Station

1906年:
グレート・ノーザン鉄道とノーザン・パシフィック鉄道が運行するためのキング・ストリート駅が開設されました。

1907年:
バラード、ウエスト・シアトル、コロンビア・シティ、レーニア・ビーチがシアトルに併合されました。パイク・プレース・マーケットが8月17日にオープンしました。

1909年:
ワシントン大学の敷地内で、アラスカ・ユーコン・太平洋博覧会(Alaska-Yukon-Pacific Exposition)が開催されました。この博覧会のために建設された噴水『ドラムヘラー・ファウンテン』と、その向こうにマウント・レーニアが見えるように造園されたレーニア・ビスタは、ニューヨークのセントラル・パークをはじめとする公園や、シアトルの自然と景観の保護を目的とする都市公園計画を作成したことでも知られるオルムステッドが手がけたもので、現在もキャンパスの名所となっています。博覧会のために建設された建物で残っているのはアーキテクチャ・ホールとカニンガム・ホールだけですが、ワシントン大学によると、博覧会の建物の一部は長い間、大学で使用されていたとのこと。この博覧会では『日本の日』(Japan Day)も開催され、渋沢栄一が団長を務めた渡米実業団が出席しました。当時の写真や配布物などの資料は、ワシントン大学の公式サイトで見ることができます。

1910年:
シアトルの人口が237,194人に。ローレルハーストとジョージタウンがシアトルに併合されました。ワシントン州の女性が参政権を獲得しました。

1911年:
シアトル港が設置されました。ユニオン・パシフィック鉄道のためのユニオン駅が開設されました。

1914年:
パイオニア・スクエアに現存する42階建てのスミス・タワーが完成しました。その後40年以上にわたり、アメリカ西部で最も高い建物であり、シアトルの大都市への憧れの象徴でした。

1914〜1918年:
第一次世界大戦

1916年〜1940年代前半 シアトルの人口増加 アジアからの移民禁止

1916年:
シアトルを含むアメリカ西海岸の主要な港で港湾労働者が、6月から10月までストライキを行いました。

1917年:
チッテンデン水門(Hiram Chittenden Locks)を含む Lake Washington Ship Canal が完成しました。これにより、シルショア湾、レイク・ユニオン、レイク・ワシントンが水路で結ばれました。Boeing Airplane が創業したのもこの年です。

1918-1919年:
スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが大流行し、シアトルでは約1600人が亡くなりました。

1919年:
2月6日にアメリカで最初のストライキがシアトルの造船所で開始され、6万人が出勤しない状態が2月11日まで続きました。アメリカ史上最長の一般ストライキとして歴史をつくりました。

1920年:
シアトルの人口が31万5,312人に。

1924年:
7月1日に1924年移民法(Immigration Act of 1924)が制定され、アジアからの移民が全面的に禁止され、日本からも移住を目的とした渡米ができなくなりました。この移民割当法は第2次世界大戦後の1965年に廃止されました。

1929年:
トーマス・エジソンが電気を開発し、シアトルの街灯が電気で点灯するようになりました。現在のジョージタウンに、ボーイング・フィールド(現在のキング郡国際空港)が開設されました。

1932年:
シアトルで最初のハイウェイの橋、オーロラ・ブリッジが完成しました。

1933年:
シアトル美術館が、キャピトル・ヒルのボランティア・パークに完成しました。

1934年:
The Washington Park Arboretum が開園しました。5月9日にアメリカ西海岸のストライキが始まり、7月31日まで続きました。

1938年:
フィッシュ&チップスで知られる 『Ivar’s』 が1号店をピア54にオープンしました。

1939年:
後にアウトドア専門店 REI となるクライミング用品のコープを創業。多様な人種が住むアメリカで最初の公共住宅 Yesler Terrace がオープンしました。

1940年:
シアトルとマーサー・アイランド、イーストサイドを結ぶ浮橋 The Lake Washington Floating Bridge がオープンしました。

太平洋戦争勃発 西海岸の日本人・日系アメリカ人の強制収容

1941年12月7日:
日本がハワイの真珠湾を攻撃したことを機に、FBI はシアトルなどのあるキング郡に住んでいた約9600人の日系1世や2世を逮捕し始めました。Historylink.org によると、逮捕された中には、仏僧、日本語教師、役人、コミュニティ組織のリーダーなど、FBI がスパイの可能性があると判断した人々が含まれていました。さらに、鉄道のトンネルや高速道路の橋、ラジオ局などへの接近禁止命令、旅行制限、ビジネスライセンスの取り消し、銀行口座の凍結などが進められました。

1942年:
2月19日にフランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名・発令した結果、特定地域を軍管理地域に指定する権限を与えられた陸軍長官が日本人と日系アメリカ人を西海岸から強制退去させることが可能になりました。そして、この年から太平洋戦争が終結するまで、厳しい風土の過疎地に設置された強制収容所に約12万人の日本人と日系アメリカ人が強制収容されました。このうち約3分の2はアメリカ生まれの日系アメリカ人でした。

1945年〜1960年代 第二次世界大戦終戦、シアトル万博博覧会開催

1945年:
強制収容所に収容されていた日本人と日系アメリカ人が解放されました。しかし、元の生活に戻ることは到底簡単ではなく、さまざまな苦難が待ち受けていました。

1949年:
4月13日にマグニチュード7.1の地震が発生し、シアトルで7人が死亡しました。7月9日にシアトル・タコマ国際空港がオープンしました。

1950年:
シアトルの人口が467,591人に。

1953年:
アラスカン・ウェイ高架橋が完成しました。

1960年:
シアトルの人口が557,087人に。

1961年:
シアトル市議選挙でアメリカで最初の中国系アメリカ人のウィング・ルーク氏が当選しました。

1962年:
シアトルで万博博覧会 『センチュリー21』 が開催されました。スペースニードル、シアトル・モノレールもこれにあわせて完成しました。そのおかげで市の重要な財源である観光産業が成長し始め、万博の跡地はシアトル市のシンボルでもあるスペース・ニードルを中心とする文化施設や遊園地、スポーツ競技場が集まった、シアトル・センターと呼ばれる施設になっています。

1963年:
シアトルとイーストサイドを結ぶもう一つの浮橋 The Evergreen Point Floating Bridge が開通しました。

1967年:
高速道路 Interstate 5がタコマ市とエベレット市の間で開通しました。NBA シアトル・スーパーソニックスが最初の試合を行いました。

1970年代 ボーイング不況 産業の多様化

1970年:
シアトルの人口が530,831人に。

1970年:
ネイティブ・アメリカンの活動家約100人がフォート・ロートンで使われていなかった建物の占拠を試み、1865年に締結された条約で余剰軍事用地の元の所有者に返還することを約束する条項に基づき、所有権を主張しました。この抗議により、現在ディスカバリー・パークとなった公園にネイティブ・アメリカンの文化などを伝えるデイブレイク・センターができました。

その後、シアトル市は1970年代にボーイング社が不況に見舞われたことで経済的な打撃を受けましたが、それを繰り返さないよう、産業の多様化を進めてきました。

1980年代以降

1979年にニューメキシコ州で創業したマイクロソフトは、ビル・ゲイツ氏とポール・アレン氏がシアトル郊外のレドモンド市に本社を移転し、1995年には世界最大のソフトウェア会社となり、その後のシアトル地域のIT産業の発展に大きく貢献しています。

Historylink によると、シアトルのダウンタウンにコロンビア・センターのような高層ビルが建設され始めたのは1980年代。1990年にはメトロ・トランジットがダウンタウンの下にバス専用のトンネルを開通させ(のちに、ライトレールも通過するようになります)、1991年にはシアトル美術館が新たに完成した建物に移転してオープンしました。1993年にはトム・ハンクスとメグ・ライアンが共演した『Sleepless in Seattle(邦題:めぐり逢えたら)』が大ヒット。

1999年11月末には WTO 暴動が起きましたが、シアトルの経済成長の勢いは衰えませんでした。EMP(現在のMoPOP)、プロのスポーツチームのための新しいスタジアムの建設もこの時期です。1994年には、アメリカでは貴重なアジア美術専門の美術館の一つ、シアトル・アジア美術館がオープンしました。

21世紀に入り、2001年にニスカリー地震が起き、ドットコム・バブル(dot-com bubble)がはじける結果となりましたが、その後はまた盛り返し、シアトル中央図書館、サウス・レイク・ユニオンのストリートカー、ライトレールのセントラル線が完成しました。

2007年にサブプライム住宅ローン危機を発端としたリーマン・ショックと、それに連鎖した一連の国際的な金融危機が起き、シアトルも大きな打撃を受けましたが、IT 産業がけん引して景気後退から抜け出し、歴史的な好況が始まりました。

2019年末から中国で死者が報告され始めた感染症が世界各地に広がり、2020年3月にWHO(世界保健機関)がパンデミック宣言を出しました。

米国政府は2020年1月にCOVID-19の国家緊急事態宣言と公衆衛生上の緊急事態宣言を出し、ここワシントン州は米国で最初の死者、アウトブレイクが報告されたところとして、科学にもとづいた感染対策を行いました。

2020年5月25日にミネソタ州でミネアポリス警察の警官に黒人のジョージ・フロイドさんが殺害されたことで、人種差別に対する史上最大規模の抗議活動が全米に広がり、シアトルでも激しい抗議活動が展開されました。

2021年12月に、新しく開発されたCOVID-19のワクチン接種がスタート。ワシントン州では2021年6月に経済活動が全面的に再開されました。米国政府は2023年5月11日にCOVID-19の国家緊急事態宣言を解除し、公衆衛生上の緊急事態宣言も終了しています。

シアトル地域は、スターバックス、アマゾン、マイクロソフト、Costco(コストコ)などに代表される世界企業の集積地となりましたが、同時に、所得格差の拡大、不動産を含む物価の高騰、ホームレス人口の急増、手ごろな価格の住宅の不足、人口急増による渋滞の悪化、シアトル警察による人種差別・過度の力の行使など、多くの課題を抱えています。

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