1900年代から第二次世界大戦中まで、日本人と日系アメリカ人の重要なコミュニティとして栄えていた日本町。主に移民として日本からアメリカに渡ってきた日本人(日系一世)が中心となり、商店、飲食店、ホテル、劇場、銭湯、集会所などがひしめき、1930年代の最盛期には約8,400人が住む活気のあるエリアに発展していました。
日本からの出稼ぎ労働者・移民を取り巻く状況
1880年代、明治維新後の社会的変化のなかで、家督を継がない次男などが「海外でのより良い生活」を求めて、米国の炭鉱、林業、鉄道建設などで働くために海を渡りました。当時、先行していた中国系労働者への排斥運動(1882年の中国人排斥法)により不足した労働力を補う形で、日本人が集められたという背景もありました。
しかし、言葉の壁や人種差別、そして外国人が土地を所有することを制限する法律など、当時の日系移民を取り巻く環境は決して容易なものではありませんでした。1906年には米国連邦議会が移民法を改定して日本人がアメリカ国籍を取得することを禁止し、1908年には日本人労働者の米国入国を禁止しました。同年には日本の外務省が自発的に移民の旅券の発給を停止しています。その後、1924年には日本からの移民の入国が全面的に禁止されました。
必要性から生まれた「シアトル日本町」
©︎Rick Wong
現地の一般企業への就職が困難だったからこそ、日本人は自分たちで経済圏を作る必要に迫られます。その結果、たくさんの人たちが商店、洋服屋、ホテル、銀行、飲食店などを起業し、病院、学校、道場、仏教会(現シアトル別院)、教会、公衆浴場(銭湯)もひしめく「シアトル日本町」が形成されました。
1902年に創立したシアトル日本語学校(現在はワシントン州日本文化会館 JCCCW)は、生徒が増えたことによる規模が拡大され、最盛期の1930年代には1300人の生徒が在籍していました。
最盛期の1930年代には、今のインターナショナル・ディストリクト、リトル・サイゴン、パイオニア・スクエア、セントラル・ディストリクトまで広がり、約8,400人が暮らす巨大なコミュニティに成長。これが、現在のシアトルに今なお多くの日系コミュニティや日本関連イベントの基盤が残っている理由です。
大統領令9066号による日本人・日系アメリカ人の強制収容
Courtesy of Library of Congress
カリフォルニア州サンフランシスコ空襲避難所のポスターが貼られた煉瓦の壁の横に掲示された強制退去命令
避難の影響を最初に受けることになったサンフランシスコ市内の地区から日本人の血筋を持つ人々を退去させることを指示するもので
1942年4月1日にJLデウィット中将が発令し1942年4月7日正午までにこの地区から退去するよう指示しました
順調に見えた日本町の繁栄は、1941年12月7日(現地時間)に日本がハワイの真珠湾を攻撃したことを発端とする日米開戦、そして翌年2月19日にルーズベルト大統領が大統領令9066号(Executive Order 9066)を発令したことによって突然停止します。この大統領令は、「国家の安全保障にとって “脅威” とみなされた人物を、裁判や個別審査を経ることなく、特定地域から強制的に退去させる権限を軍に与える」というもので、日本人の血をひく人たちを強制退去させることにつながりました。
わずか48時間ほどの猶予でどこに連れて行かれるのかもわからないまま連行されることになった人々は、重ね着できる服以外の身の回りの品、両手で持てるトランク(スーツケース)に詰める限りのものを詰めて、それ以外の財産や家、店や会社、農場はすべて置いていくしかありませんでした。
そこで、日本から出稼ぎのため単身渡米した男性向け長期宿泊施設として建設され、1910年8月にオープンしたパナマ・ホテルの当時の経営者だった日系2世のタカシ・ホリ氏は、人々が持ち寄った家財や思い出の品を、ホテルの地階、そして地下銭湯『橋立湯』へと運び込みました。
1942年に強制収容される前に人々が持ち寄った所持品が地下に保管されたままになっているのを見ることができる
戦後、引き取り手が現れなかった(あるいは収容所で亡くなった)人々の荷物は、捨てられることなく今もそのまま地下室に保管されています。パナマ・ホテルの1階にあるカフェに立ち寄って、床のガラス越しに見てみてください。
1985年に建物を買い取った現オーナーのジャン・ジョンソンさんも「できる限り保管しておきたい」とその意思を受け継いでいます。
地階にある公共銭湯『橋立湯(Hashidate-Yu)』は、1910年から第2次世界大戦中を除く1960年まで営業され、その後は放置されたままとなっていましたが、現在は不定期でツアーが行われています(ツアーの詳細についてはホテルに要問い合わせ)。
大統領令9066号は戦時中の国家安全保障を理由に発令されましたが、戦後になって人種差別的な政策として批判され、1988年にはアメリカ政府が公式に謝罪し、生存者に対する補償が行われました。
シアトル日本町の中心部が特別景観地区へ
強制収容によって一度は廃れたシアトル日本町ですが、1973年になって、アジア系アメリカ人グループの努力によって南側のインターナショナル・ディストリクトとともにようやく特別景観地区に指定され、歴史的建造物が保存されることになりました。
その後、パナマ・ホテルは2006年に国定歴史建造物に指定され、2015年にナショナル・トラスト(National Trust)によりシアトル唯一の国宝に指定されました。米国史跡認定。国宝に指定されたことにより、ナショナル・トラストがホテルに残された所持品の目録作成・記録・保管を手がけることになり、現オーナーのジャン・ジョンソン氏が引退する際は、新たな経営者を確保する必要があります。2020年には、日本政府より「令和二年度外務大臣表彰」を受賞しました。
このパナマ・ホテルが一般に広く知られるようになったのは、日本町を舞台に日系人の強制収容を描いたジェイミー・フォードの小説『Hotel on the Corner of Bitter and Sweet(邦題:あの日パナマ・ホテルで)』(2009年出版)が、2010年にニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入りしたことがきっかけです。詳細は下記のコラムなどでご一読ください。
現在も歴史を繋ぐ周辺のスポット
1904年創業の日本食レストラン「まねき」は、日本町の象徴的な存在です。戦時中の一時閉鎖やコミュニティの衰退を乗り越え、日系人たちの心の拠り所として食文化を守り続けました。今もなお現役で多くの人々に愛されるその空間は、日本町の歩みそのものです。
シアトルに来るたびにこの地域や壁画を訪れています
偶然ベルビューから訪れていた3年生のグループとナタリーさん
写真提供Albert Ong
東側の壁にある日系3世のアーティスト、エリン・シガキさんの作品は、ベインブリッジ・アイランドから強制収容されたフミコ・ニシナカ・ハヤシダさんと当時13ヶ月だった娘のナタリーさんの写真を大きく使い、強制収容されながらも母国アメリカのために従軍を志願した日系アメリカ人兵士の名前、そして強制収容を二度と繰り返させないという意味の “NEVER AGAIN IS NOW” というメッセージを掲げています。2025年1月にこの作品が黒いインクのようなもので汚される事件が発生しましたが、コミュニティが協力して修復しました。
Jackson Street に面しているショップ 『Kobo at Higo』 も、日系人ゆかりの場所のひとつです。第2次世界大戦前から75年にわたって営業してきた 『Higo』 が2004年6月に閉店した後、その歴史を保存するため、シアトルや日本のアーティストによる作品を展示販売している『Kobo』 の経営者びんこ&ジョン・ビスビー夫妻が2004年11月に新しいショップとしてオープンしました。
また、2025年には日本館劇場(Nippon Kan Theatre)が再オープンしました。1909年に開館し、戦前は歌舞伎や演劇、映画の上映、コミュニティの集会所として日本町の文化的中心地だった劇場です。戦後は長らく本来の用途から離れていましたが、歴史的価値を次世代へ繋ぐため、2025年に大規模な改修工事が行われ、現在はさまざまなイベントが開催されています。
こうした日本町の歴史をたどることのできる無料ウォーキングマップ(英語版・日本語版)は、ウィング・ルーク博物館の公式サイトからダウンロードできます。また、同博物館では、このマップで紹介されているゆかりの地をめぐる英語でのウォーキング・ツアーや個別ツアーも実施しています(詳細は博物館の公式サイトをご覧ください)。
