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第51回 三冊のノート

著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

今回のコラムは、少しばかり趣向を変えて、息子と娘にも参加してもらうことにした。いや、正確には、彼らの「作文ノート」から一部を拝借することにした。「それ、書き留めておきなさいよ。」この夏、日常のさまざまなシーンで、私は彼らに声をかけるようにした。猫の額のようなベランダで、娘が心を込めて育ててきたトマト(「とっちゃん、まっちゃん、とまっちゃん」)が実を結び、7月の光を浴びて艶やかに光った朝。「先生に礼!」いつしか剣道着姿も板についた息子が、道場で師にお辞儀をする金曜日の夜。千代田区の空の下、言語や文化の壁による試行錯誤を繰り返しながらも、それぞれの世界を確立してきた子供たち。ハーフではなくアメリカ人としてのアイデンティティを保持し、いつかは「故郷・シアトル」へ帰るのだと断言しながらも、彼らは無意識のうちに日本での生活に溶け込んできた。詰襟の学生服を着、竹刀を片手に登校する息子や、「茨城県は・・・どこだっけ? えーと、水戸だったよね」と、カード片手に県庁所在地テストの準備勉強をする娘。すっかりジャパニーズ・ボーイ、そしてジャパニーズ・ガールじゃない。そう、彼と彼女の背に心の中で語りかけることがある。

限りある異国での日々が記憶に封印され、歳月の流れの中で色褪せていく前に、二人の想いを言葉にして残しておきたい。それは、親心であると同時に、今となっては未知の国と化した日本での生活と格闘を続けてきた「同士」の思い入れかもしれない。ベランダに立ち、ビルの連なりの彼方にエバーグリーン・ステートでの日々を思い描き胸を切なくするのは、私とて同じだ。日本が好きで、日本に帰って来た。その反面、「君にとって、『帰る国』はどっちなんだい? 風通しよく生きられるのは、どっちなんだい?」と、声にならない声が、どこかから響くような気がしてならない。そんな中にあって、息子と娘に一冊ずつノートを手渡し、いわば散文もどきを、時にはなぐり書きのような形で、少しずつ少しずつ書かせてきた。バイリンガルでござい、と豪語する程の日本語力を、彼らは持ち合わせていない。公立校に通っているとはいえ、シアトルで生まれ育った彼らの母国語は、あくまでも英語である。同年齢の日本人の子と比べると、レベルの低い文章かもしれない。いや、きっとそうだろう。それでも敢えて母親の私が手直しを入れずに、なるべく原文に忠実なまま、彼らのノートの一部を紹介したい。(冒頭から私にとって都合の悪いことも書いてあるが、恥を承知の上で、さらけ出すことにした。)兄妹でありながら、二人が異なった角度から日本を見ているのも興味深い。

夏休みの旅行先・北海道トマムにて、昔懐かしい竹馬に挑戦。

7月 X 日 (息子のノート)

完璧な、素晴らしいユートピア。日本について、僕は、そのような印象を持っていました。昔、日本はどういう国かわかっていませんでした。シアトルに住んでいた頃、母が怒ったり、気嫌を悪くしたりした時などに、アメリカと日本を比較し、アメリカの弱点を声を大にして強調していたのが、その主な原因だと思います。そして、母が日本での仕事を見つけて、日本に移動することが決まった時、宝くじをひいたような気持ちがあふれ出しました。
最初、飛行機から降りて、空港とつながるトンネルのような物を通った時、まず最初に感じたのは、蒸し暑いということでした。でも、シアトルの9割が雨で、残りの1割がじめじめしているような環境に慣れていたので、東京とは天気が素晴らしいなと思いました。その後、空港の中へ入っていくと、へたな英語の看板を見て、ここは外国だなと強く感じました。空港を出て行くバスから見る景色の中、へたな英語があちこちで見つかり、日本の人たちは、外国人が来ると恥ずかしくないのかと疑問に思いました。特に、日本に着いて何週間か後に、デパートに行った時、Recycl Box と書いた箱を見て、「これは、ちょっとひどいな」と思ったのを、はっきりと覚えています。また、日本に来たばかりの時に素晴らしいとさえ感じた暑さは、悪の存在へと変わり、昼間は僕たちをこらしめました。アイスクリームを買っても、あっという間に溶けてしまったのをよく覚えています。(中略)

中学校に入学後、昔大好きだった日本は、すっかり魅力をなくしてしまいました。東京の汚れた空気がいやになり、また狭いマンション暮らし、バイオリンを練習する時には、ミュートという音を小さくするための部品をつける生活に、あきてしまいました。どこを見ても、ビルばかり。夏は暑く、冬は寒く、もうさんざん。東京は、自然が足りないと思います。確かに、道の横に植木やらありますし、公園もちらほらとあります。でも、アメリカと比べると大違いです。(後略)

母の注釈:息子は大都会の喧騒を嫌い、私と娘が銀座や赤坂の繁華街へと繰り出す週末など、顔をしかめて、夫との留守番を決め込む。都心のマンション暮らしに家族で最も愛想をつかしているのは、彼だろう。ガラスの森も住めば都、と私には思えるのだが、そして実際、東京という世界有数の国際都市に住むからこそ体験できることも豊富なのだが、親の独りよがりと言われてしまえばそれまでだ。そんな息子も、剣道という情熱の対象を見つけ、少しずつではあるが、新たな世界を築きつつある。詳細は、後日のコラムに譲りたい。

小樽のお土産物屋さんの店先で。

7月 X 日 (娘のノート)

パラパラと雨が降るシアトル。そこから、セミがミーンミーンとなく日本へと、やって来ました。緑にあふれるちどりがふち(母の注釈:「千鳥ヶ淵」のこと)のすぐ近くに住むことになりました。やがて、春になりました。日本で一番いい季節だと思います。ちどりがふちは、何千本もの桜の木に囲まれ、美しい季節になるのです。全国から、そして外国から観光客がやってきます。風に飛ばされる桜が、空中に広がり、みんなが笑顔になることができます。ボートに乗るのは特に人気があり、1時間も待って乗る人もいます。ワシントン大学のキャンパスの桜も、確かにきれいです。ただし、ちどりがふちにはかないません。こんな地域に、私はめぐまれてくらしています。(中略)

私は、日本の学校に通っています。アメリカの学校と違うところが、二つ見つかりました。一つ目は、そうじです。アメリカの学校では、大人がそうじをするけれど、日本では生徒がします。グループごとに黒板消し、そうきん、つくえ、たななどに分かれて、15分間ぐらい、そうじを行います。二つ目は、委員会です。アメリカでは、聞いたこともないことです。放送、集会、しいく、さいばいなど、いろいろな委員会があります。自分の委員会で活動することにより、学校のために仕事をします。もっといい学校にするために、委員会活動があります。この二つは、アメリカでは信じられないほど、めずらしいと思います。こんなにいろいろなことを体験できて、とてもうれしいです。

母の注釈:息子の文章とは対照的である。彼より3歳年下の分、環境順応力もぐんと高いと見える娘は、「おしゃま」という言葉が似つかわしい5年生になった。放送委員会でアナウンスをし、科学クラブで実験に興じ、休み時間には女の子数人のグループでキャッキャッとはしゃいでいる。喋り方もすっかり東京っ子ぽくなり(「だってさあ!」「そんなこと、言ってないしぃ!」)、未だ関西弁のアクセントが抜けず、東京人にはなり切れない(なろうという気もない)母を苦笑させる。

北海道大学植物園の緑に囲まれ、バイオリンの練習

8月 X 日 (母のノート)

B 面の夏。そんなフレーズがあったっけ。ふと思い出す。ペンを走らせようとしていた絵葉書を裏返すと、冬季オリンピックの舞台でもあった大倉山ジャンプ競技場の光景がある。北海道滞在の最終日、札幌市街や石狩平野を一望できる標高307メートルの展望台までリフトで上った昼下がり。絵葉書を凝視すると、北国のすがすがしい風や、前方のリフトから振り返った娘の笑顔が、瞬時にして蘇るようだ。新千歳空港を発った飛行機が羽田に舞い降り、うだるような暑さや喧騒の中に身を委ねた途端、都心のビル街での生活に引き戻された。北大キャンパスのポプラ並木に、小樽運河、旭川の見本林、そしてトマムの無人駅。短編小説に終止符が打たれるかのごとく、A面の夏が駆け足で過ぎ去った。ああ、また満員電車にぐいぐい押し込まれての通勤が始まろうとしている。辟易する一方で、日常のドラマにささやかな光を見出すB面の日々も悪くはない、と自分に言い聞かせる。

「残暑お見舞い申し上げます。」知らぬ間に、この挨拶言葉が似つかわしい季節が到来していた。友人宛に絵葉書を書きながら、気がつく。執拗にまとわりつくような蝉の鳴き声さえもが、一抹の淋しさを湛えて響く。ラジオ体操も終わり、人影が消えた校庭が、正門の向こう側から、「戻っておいでよ」と子供たちに懇願しているような、そんな季節の中に、私たちはいる。

夏休みは、箱庭のようなものだ。草花に水をやり大事に育て上げ、小さな庭を遠くから眺めた時、いつまでもいつまでも、その煌きが失せずにいるような、そんな夏休みを過ごしたい。毎年、切に願う。今年は、それを、一体どこまで実現できただろうか。

8月 X 日 (母のノート)

新学期が皮を切ろうとしている。最初の日とて、防災訓練あり、水泳記録会に向けての特訓ありで慌しい。汚れたまま放り投げられていたピンクの防災頭巾を大慌てで洗い、ベランダに干す。通知表の保護者欄に捺印をする。「自由研究、ちゃんと終わったか、もう一度確認してよ。」「算数ドリルのやり直しは、どうなったの?」「プールバッグは、用意した?」 ガミガミ母さんの登場だ。もっとも、この黄昏時、日本全国の家庭で、似たり寄ったりの会話が繰り返されているのかもしれない。運動会の練習に、剣道の試合。早くも中間試験。そして、老人ホーム慰問の一環として、兄妹でバイオリンのミニ・コンサート。スケジュール帳を開けば、最初の2,3週間だけでも予定が目白押しだ。ベランダを吹く涼風の中、見慣れた高層ビルの連なりから顔を除かせる空に目をやる。「泣いても笑っても、9月だよ。お互い、がんばろうね。」 一瞬、寂しい気持ちが胸を過ぎり、自分を奮い立たせるかのように、心で呟く。 この秋、3冊のノートが、新しい発見とキラキラした言葉で埋まりますように。

1972年の札幌冬季オリンピックの舞台でもあった大倉山ジャンプ競技場

掲載:2014年9月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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