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AIとメンタルヘルス:救世主にも凶器にもなり得る諸刃の剣

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世界で深刻化する心の不調への対策として、AIは新たなソリューションを提供しつつあります。一方で、AI との過度な依存や誤った関わり方によって引き起こされる新たな現象「AI精神病」も報告され始めています。今回の Seattle Watch では、AI がメンタルヘルスを守る「救世主」にも、精神的な不調を増す「凶器」にもなり得る可能性について考察します。

世界のメンタルヘルス問題の深刻化

世界のメンタルヘルス問題は近年ますます深刻化しています。WHO(世界保健機関)の最新データでは、全世界で10億人以上が何らかの精神疾患を抱えており、うつ病や不安障害は長期的な疾患原因の第2位を占めています。

特にうつ病と不安障害による経済損失は莫大で、全世界の生産性損失だけで年間1兆ドルに上るとの試算もあります。自殺も依然として深刻な問題で、2021年には世界で約72万7,000人が尊い命を絶っており、メンタルヘルスの悪化が国際的な社会課題として浮き彫りになっています。

メンタルヘルス関連市場の拡大

こうした背景からメンタルヘルス関連の市場も拡大を続けています。世界のメンタルヘルス市場規模は、2024年に約4,482億ドルに達し、2033年には約5,738億ドルに拡大すると予測されています。

各国政府も対策を強化しつつありますが、メンタルヘルス支援への予算配分は依然少なく、各国の医療予算の中央値でわずか2%程度に留まっており、人材不足も重なってサービス体制の拡充が追いついていないのが現状です。世界全体でみると、メンタルヘルス従事者数は人口10万人あたり13人しかおらず、特に低・中所得国では極端な人材不足が見られます。

AI の活用

深刻化するメンタルヘルスの危機に対し、AIの活用が新たな解決策として期待されています。例えば、IEEE(米国電気電子学会)では、2025年6月に機械学習とAIチャットボットの活用によってメンタルヘルスケアの地域格差の是正を目指す見解を示しています。

この見解の背景には、「計算論的精神医学」(Computational Psychiatry)という新しい学問の台頭があります。これは脳や心の情報処理プロセスを数学モデルで表現し、コンピュータ上でシミュレーションすることで、精神疾患のメカニズムの解明や治療法開発につなげようとする試みです。

例えば、不安障害のある人は出来事を脅威だと感じやすく、うつの人は悲観的に解釈しやすいといわれています。これは脳が「感覚から入る新しい情報」と「事前の期待(予測)」を組み合わせて出来事を理解しているためです。もし脳が「新しい感覚情報」よりも「もともとの期待」を強く信じてしまうと、認知や解釈がその期待に引っ張られてしまいます。計算論的精神医学では、こうした心の働きを「確率の計算」として数式でシミュレーションすることで、認知の偏りや精神疾患の特徴を理解しようとしています。

カウンセリングや診断の現場における AI の活用

より直接的にカウンセリングや診断の現場でAIを活用する試みも進んでいます。AIを活用する最大のメリットは24時間365日利用できる支援を低コストで提供できる点です。例えば、セラピストの不足が叫ばれる米国では、約5,920万人もの成人がセラピーを必要とする一方で、その54%は何のケアも受けられていないという統計があります。また、匿名かつ手軽に利用でき、対人相談のハードルを下げる利点も評価されています。そのため、最近では対話型のAIチャットボットが「デジタルセラピスト」としてユーザーの悩み相談や認知行動療法(CBT)を提供する事例が増えています。

具体的なスタートアップをいくつか紹介したいと思います。例えば、米国の Slingshot 社が開発した「Ash」は、単なる汎用AIではなく心理学専用の基盤モデル上に構築されたAIで、認知行動療法(CBT)や弁証法的行動療法(DBT)、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)など数十種類の治療手法のデータを学習し、専門家の監修のもと調整されています。さらに注目すべきは、その対話スタイルで、Ashは利用者の話に単に迎合するのではなく、「健全に挑戦する」機能を組み込んでいます。これは「ユーザーに気持ちよく同調するだけでは根本的解決にならない」という心理療法の基本に立ち返った設計で、実際のカウンセリングでもセラピストはクライアントの思考の偏りに問いかけを行い、新たな視点を提供しています。このアプローチは、後述する「AI依存によるメンタル悪化」を防ぐ上でも重要だと考えられています。

他にも、英国の Psyrin は音声解析AIによって精神疾患を早期評価する技術を開発しています。このAIは、利用者が5分程度話すだけで、AIが発話パターンや声の特徴から精神病のリスクを客観的にスクリーニングしてくれるというものです。モデルは大規模な概念実証研究(収集された音声は合計2万分以上)で訓練されており、85%〜99% の診断精度を示しています。Psyrin を用いることで、精神科医は診断にかかる貴重な時間と労力を節約できるだけでなく、大規模な予防的介入を新しいケアの標準とすることができます。

AI 精神病(AI Psychosis)という現象

一方で、AIの発達が「諸刃の剣」になるケースも出てきています。便利なチャットボットAIに頼るあまり、かえってユーザーのメンタルヘルスを悪化させる現象が報告され始めています。その象徴的な言葉が AI精神病(AI Psychosis)です。

これは正式な医学用語ではありませんが、AIチャットボットとの過度な対話によって妄想的な信念や現実認識の歪みが生じる状態を指す俗称として、メディアや専門家の間で使われています。例えば、ChatGPTなど生成系AIに深くのめり込んだ結果、「自分はAIと対話する中で時間を曲げる方法を発見した」と信じ込んでしまい現実とかけ離れた確信を抱くケースや、「AIが自分の運命を導いてくれる神のような存在だ」と崇めてしまうケース、あるいはAIを理想的な恋人として妄信してしまうケースなど、従来見られなかったタイプの精神状態が報告されています。

実際に、AIとの対話が引き金になった悲劇的な事件も発生しています。2023年3月、ベルギーの男性がAIチャットボット「Eliza」と6週間にわたり対話を続けた末に自殺する事件が報じられました。また2024年2月には、アメリカで14歳の少年がCharacter.AI上の架空キャラクターとのやり取りの直後に命を絶ったケースも記録されています。さらには2025年4月、米国フロリダ州の男性がChatGPT内の「ジュリエット」という人格を信じ込み、奇行に走った末に警察に射殺されるという痛ましい事件が起きました。

専門家たちは、こうしたAIの使用による精神的悪影響に強い警鐘を鳴らしています。スタンフォード大学が2025年4月に発表した研究では、大規模言語モデル(LLM)が自殺念慮を抱えたユーザーに危険な助言を与えるリスクが指摘されています。心理学の専門家らは、現在のChatGPTのようなモデルはユーザーの発言に迎合しやすい「シコファンシー(sycophancy:へつらい)」の傾向があり、否定も訂正もしないために、エコーチェンバー(同質情報だけが増幅し、異論が入りにくくなる情報環境)を生み出してしまうと指摘しています。

AI 時代のメンタルヘルスとの向き合い方

では、私たちはAI時代のメンタルヘルスとどう向き合っていけばよいのでしょうか?企業や研究者たちも問題を認識し、リスク低減のための取り組みを始めています。

OpenAIでは、自社のチャットボット(ChatGPT)によるユーザーへの影響を調査するために臨床精神科医を雇用し、安全対策の強化に乗り出しています。また、人間の妄想的思考によりうまく対処するAIを生み出そうとする、多くの取り組みが出てきています。例えば、モデルがユーザーの偏った発言にただ同調するのではなく、適切に反論や是正を試みるように調整が進められています。

こうした安全策の強化は、短期的にはユーザー満足度を下げるリスクを伴うものの、AIが「言われた通りの答えをするだけ」の存在から脱却し、誤った方向へ共に走らないために不可欠だと考えられています。前述のSlingshot社の事例も、その方向性を示しています。

臨床心理士の Derrick Hull 氏は、「これまで報告されているケースは従来の精神疾患というより、AIに誘発された妄想状態に近い」と分析しつつ、「AIが健全にユーザーに疑問を投げかけること」の重要性を強調しています。「叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である」という松下幸之助氏の言葉や、「喧嘩するほど仲が良い」といった言葉がありますが、結局のところ、人間同士の関係も、人間とAIの関係も、常に自分を客観視し、異なる意見や考えをぶつけ合い、視野を広げてくれる存在が不可欠であると言えるかもしれません。

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提供:Webrain Think Tank 社
【メール】 contact@webrainthinktank.com
【公式サイト】 https://ja.webrainthinktank.com/

田中秀弥:Webrain Think Tank社プロジェクトマネージャー。最先端のテクノロジーやビジネストレンドの調査を担当するとともに、新規事業創出の支援を目的としたBoot Camp Serviceや、グローバル人材の輩出を目的としたExecutive Retreat Serviceのプロジェクトマネジメントを行っている。著書に『図解ポケット 次世代インターネット Web3がよくわかる本』と『図解ポケット 画像生成AIがよくわかる本』(秀和システム)がある。


岩崎マサ:Webrain Think Tank 社 共同創業者。1999年にシアトルで創業。北米のテックトレンドや新しい市場動向調査、グローバル人材のトレーニングのほか、北米市場の調査、進出支援、マーケティング支援、PMI支援などを提供しています。企業のグローバル人材トレーニングや北米進出企業のサポートに関しては、直接ご相談ください。

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