サイトアイコン junglecity.com

「アメリカでうちの美味いお茶を売る!」売上ゼロから築いた Sugimoto Tea USA・杉本恭平さん

Sugimoto Tea USA 杉本恭平さんと社員の皆さん

静岡県の杉本製茶の次男として生まれ、現在はシアトル近郊のレドモンド市を拠点に Sugimoto Tea USA を展開する杉本恭平さん。もともと「自分が家業に入る」という意識はなく、創業者の祖父から受け継いだ二代目の父・杉本博行さん、そして三代目の兄・杉本将明さんがいる環境でお茶工場を見て育ちながら、「お茶屋をやりたい」というモチベーションは持っていなかったといいます。しかし、2003年9月、親子で訪れたシアトルで「ここに住めたらいいな」と強く惹かれ、思い切って家業に飛び込む決断をしました。英語ゼロからのスタート、売上ゼロの独立初年度、そしてビザの事情で8年間日本に帰れなかった時期。それでも「とにかく売り上げを上げるだけ」と前を向き続けた杉本さんに、アメリカで日本茶を広げてきた歩みと、最も大切にしていること、そして次の10年の展望まで伺いました。

シアトルで家業に飛び込んだ

左から父博行さん恭平さん母一枝さん兄将明さん

もともと、僕は「自分が家業に入る」という意識を持っていたわけではありませんでした。祖父が創業し、親父、そして兄へと続く家業の中で、次男である自分は別のことをやるんだという空気が自然とありました。

大学ではスポーツを専攻していたので、体育の先生か公務員になるのかな、というぼんやりしたイメージでした。でも、強い思いがあるわけでもなく、厳しい時代だったこともあり、大学を卒業しても就職先がなくて。そんなとき、親父から声をかけられました。

 「シアトルに取引先があるから出張に行くけど、ついてくるか?」

やることも決まっていなかったので、「じゃあ、ついていくよ」と。それが2003年9月でした。

9月のシアトルは、まだ天気が良くて、街が本当にきれいでした。それだけで、まず心を掴まれましたね。そしてもう一つ、強く印象に残っている光景があります。 宇和島屋シアトル店の棚に、杉本製茶のお茶が並んでいたことです。静岡で見ていた家業が、シアトルという街とつながった。その瞬間、静岡とシアトルが一本の線で結ばれたような感覚がありました。

 「ああ、ここでやってみたいな」
そう思ったのが、すべての始まりでした。

日本に残る選択肢がなかったわけではありません。でも、「日本かアメリカか」というチョイスではなく、若さゆえの「飛び込んでみよう」「冒険してみたい」という気持ちに近かったと思います。

そして、親父と日本に戻り、半年ほど実家の工場で働いて最低限の知識を身につけたあと、2004年9月に再びシアトルへ来ました。 親父は口では反対していましたが、僕はもう「やる」と決めていました。

売上ゼロから始まった、本当のスタート

現実は、もちろん甘くありませんでした。 英語はほとんど話せなかったので、まずはベルビュー・コミュニティ・カレッジ(現ベルビュー・カレッジ)でESLに通いながら、既存の取引先を手伝うところから始めました。

会社としての登記自体は早い段階でできていましたが、3年後の2008年1月に完全に独立し、Sugimoto Tea USA のブランドでうちのお茶を売り始めました。ここが本当のスタートでした。

ところが、独立した最初の月の売上はゼロ。2月は200ドル、3月は300ドル。1年間、週末も関係なく動き続けて、結果は約10万ドルの赤字でした。正直、かなりこたえました。

そんな赤字が数年続いたあるとき、親父に電話して「全然ダメだ」と弱音を吐いたことがあります。すると親父は、「そういう声で電話してくんな。こっちまで暗くなるわ」と言って、電話を切りました。突き放されたようで、あのときは本当にきつかったですね(苦笑)。

8年間、日本に帰れなかった

苦しかったのは、売上だけではありません。ビザの事情もありました。移民法専門弁護士からも「会社を経営していて赤字のままアメリカを出国したら、アメリカにまた入国できない可能性がある」とアドバイスを受けていたのです。

結果として、28歳から36歳までの8年間、日本に帰れませんでした。青春の一部は、シアトルでひたすらお茶を売っていた、という感じです。

ただ、今振り返ると、その時間はある意味とてもシンプルでした。 やることは一つ。売上を上げること。それだけに集中できた時間でもあったと思っています。

「うちのお茶は、うまい」

当時のアメリカでは、日本茶は「体にいいらしいけど美味しくない」「苦い」というイメージが強くありました。日本人ですら、「アメリカに来たら、お茶が美味しくない」と言っていました。

そんな中、宇和島屋で売られていたうちのお茶は、1パック20ドルくらい。 他の商品は3ドルや5ドル。誰に聞いても「高すぎる」と言われました。

でも、僕の中でははっきりしていました。

「うちのお茶は、うまい」

安くてまずいものを売るのではなく、家業で作っている「美味いお茶」を売る。それが、僕の真ん中にあったものです。

親父は職人でした。「俺のお茶、すっごいうまいよな」と、本気で言う人です。毎日お茶を淹れて、自分のお茶を飲んで、「うまいな」と言う。そんな人でした。その背中を見てきたからこそ、迷いはありませんでしたね。

飲んでもらえば、伝わる

アメリカでお茶の美味しさをどう伝えてきたかというと、やってきたことはとても地道です。 とにかく試飲。宇和島屋、タウン&カントリーで、週末はひたすら実演して、来店する人に飲んでもらう。飲んでもらえれば、反応は変わる。その自信はありました。

玄米茶を飲んでもらうと、「緑茶って苦いだけだと思ってた」「こんなの初めて」と驚かれる。その瞬間に、確かな手応えを感じたりもしましたね。

JETROの支援で展示会に出たり、全米を飛び回ったりもしました。お金に余裕はありませんでしたから、出張はいつも「絶対に売る!」という覚悟で、チャンスがあれば拾いに行く。その繰り返しでした。

そうやって続けていると、ふと成長を実感する瞬間がありました。ある時、出張の飛行機で、後ろの席に、以前どこかで少し話したことのある方が座っていました。その方が、「私、どこに行くときもあなたのお茶を持っていくのよ」と、うちの商品を見せてくれたのです。思いがけなさすぎて、言葉が出ませんでした。続けていると、こうやって生活の中に浸透するんだな、と実感した瞬間でした。

抹茶ブームで、ビジネスの桁が変わった

抹茶ブームが始まったのは、2013年から2015年ぐらいでしょうか。入ってくるオーダーの量が全然違うのです。本社が「製造するには時間かかるよ」と言うほどの量で、親父に電話して「いいから、とにかくやってくれ」とお願いし、親父は他のパートナー企業にお願いしてどうにかしてくれる、みたいになりました。「数字がどんどん伸びて、本当にこれが俺の会社なのかな」と、不思議な感覚でしたね。

ただ、抹茶ブームが起こるとボリュームに圧倒されて、「うちのお茶は美味しい」ということを忘れかけた自分がいました。でもふとした時に「いろいろ試したけど、杉本さんのが一番美味しかった」と言ってくれるお客様がいて、僕を正しい方向に戻してくれます。数字に追われている感はありますが、「まだまだやっていける」と手応えを感じられるのは、そういう声を聞いた時ですね。

僕がアメリカで伝えてきた、杉本製茶の価値観

お茶農家を訪問する父博行さん

展示会で会うアメリカの人たちにとって、僕はただの「お茶を売っている人」のはずです。でも、「これは僕の家族が作ってきたお茶なんです」「小さい頃からこれを飲んで育ってきました」と話すと、反応が一気に変わります。

アメリカには、ファミリービジネスを大切にする文化があります。だからその一言は、驚くほど響く。正直、それは“キラーワード”になっています。

ただ、アメリカでビジネスをやっていると誤解されがちですが、うちは大きな会社ではありません。静岡の田舎にある、本当に普通のお茶屋です。

親父が大切にしてきたのは、「とにかく美味しい」こと。そして、「美味しいお茶を作るために一番大事なのは農家さんだ」という考えでした。ペットボトルのお茶が広がるのと反比例するように、日本のお茶業界は長い間厳しい状況が続いてきました。高品質なお茶は売れなくなり、農家さんの収入は激減しました。僕がアメリカでこの仕事を続ける理由は、父が大切にしてきた農家さんを、少しでも守りたいと思ったからです。

もちろん、抹茶ブームで状況が少し良くなった農家さんもいます。でも、昔から付き合いのある農家さんは高齢の方が多く、70代、80代という人も珍しくありません。後継ぎがいないまま、「自分の代で終わり」と考えているところも多い。抹茶に切り替えるには大きな設備投資が必要で、それを勧められない現実もあります。

正直、どこまで農家さんを救えているのかはわかりません。僕らにできることにも限界があります。でも、農家さんが一生懸命作ったお茶を、適正な価格で買い、適正な価格で売っていく。その積み重ねしかないと思っています。

抹茶がブームだからこそ、日本の文化も伝えたい

世界に広がる抹茶ブームの裏で、日本の抹茶不足は本当に深刻です。日本全国で生産できる量の少なくとも5倍、10倍の需要があると感じています。その結果、日本産以外の抹茶も増えていますし、日本のお茶業界はなかなかついていけない状況です。

そういう時だからこそ、これから日本産の抹茶はますます貴重になっていくと思います。ボリューム的に足りないから、多くのカフェやレストランでは他国産の抹茶を使わざるを得ない状況にはなっています。しかしながら、抹茶は日本の茶道と文化的なつながりがあるので、消費者にとっても「抹茶は日本」という考えが浸透しています。この文化的な価値を僕らとしては大切にしないといけない。他国産でも「抹茶だから一緒」とはならないように、日本抹茶の文化的な価値もしっかり伝えていかなくてはならないと思っています。

大きな節目の年に思うこと

一年をかけてリブランディングが完成し水引をあしらったパッケージが完成

僕たちにとって、2026年に本社が創業80周年、2025年にアメリカ支社が20周年となった今、いちばん強く感じているのは「感謝」です。

自分一人で始めたビジネスですが、もはや一人では何もできません。自分の家族、農家さん、本社の社員さん、この Sugimoto Tea USA で働いてくれている社員の皆さんへの感謝。最初からずっと働いてくれている社員さんを含め、まだたった20人しかいませんが、その20人それぞれがすごく一生懸命やってくれています。僕は経営を学んできたわけでもなく、上手にできてるかどうかもわかりませんが、こうやって一緒に力を合わせたら大きなことが達成できるんだなと実感します。

この大きな節目に、昨年からリブランディングプロジェクトが始まりました。その中で、自分って誰なんだろう、うちの会社、うちの家族って何なんだろうと、自分や自社を見つめ直すことにかなり多くの時間を使いました。そうすると、親父のことをすごく思い出すんですよ。親父はどんなこと言ってたっけなとか、何が好きって言ってたかなとか、どんな風だったっけとか。農家さんの話、生産家の話がすごく多かったな、親父楽しそうだったし、みたいなのが出てきて。

そういうランダムなイメージを集めて、自分たちに大切なことを突き詰めていく作業をして、最後に残ったのが、「お茶で繋がる」ということでした。お茶で親と、家族と、生産農家と、お客様と繋がる。そこから水引きというコンセプトが出てきたのです。

水引きを知ってはいましたが、「繋がりを大切にする」という思いが込められていたというのを改めて知りました。最終的に1年間かけて、水引をあしらった新しいパッケージが出来上がりました。

次の10年の展望

次の10年で言うと、社内で言っているのは「杉本カフェをやりたいね」ということです。僕らは美味しさにこだわりながらも、「高すぎたら売れない」という恐れから、市場に合わせた価格帯の商品を販売しています。でも、少し値段は張りますが、もっと美味しいお茶もあるんです。社員が飲んでも「これ美味しい!」と驚くお茶があります。杉本カフェでは、そういう他ではないお茶や体験を提供したいですね。

シアトルは長く住んでいて愛着がありますし、お茶文化もすごく広がっている街です。「シアトルのお茶といえば杉本」という存在になれるよう、これからもっと発信していって、美味しい日本茶を引き続き提供していきます。

杉本恭平さん(すぎもと・きょうへい)
Sugimoto Tea USA 経営

静岡県生まれ。2003年9月に初めてシアトルを訪れ、「アメリカでうちのお茶を売りたい」と決心して家業に入る。2004年に渡米し、Sugimoto Tea USA を設立。2008年に完全独立し、レドモンドを拠点に事業を展開している。
公式サイト:www.sugimotousa.com

モバイルバージョンを終了