今の私たちは、常に大量の情報やニュースにさらされ、自分と向き合ったり、その瞬間をじっくり味わったりすることが難しくなっています。だからこそ、全身で没入して楽しむ「生のパフォーマンス」が持つ力が、これまで以上に必要とされているのかもしれません。
そんな時代に呼応するように、カナダ発のシルク・ドゥ・ソレイユ(Cirque du Soleil)は、言葉を超えた強いメッセージを込めた最新ビッグトップツアー作品『ECHO』を発表しました。2026年1月30日から3月22日にかけて、シアトル近郊レドモンドのメリームーア・パークで上演中の本作は、少女フューチャー(Future)が愛犬のエワイ(Ewai)と共に、人間と自然界のバランスを取り戻す旅を描く物語です。
パンデミック後にゼロから創作された初の完全新作としても注目されており、物語の象徴である巨大な可動式装置『CUBE(キューブ)』や、最大6名のライブボーカリストを起用した演出など、テクノロジーと身体表現が融合した革新的なステージが話題を呼んでいます。
この魔法のような世界を作り上げるアーティストの一人が、ミホ・イナバ(Miho Inaba)さんです。フランス人の母と日本人の父を持ち、カナダで育ったミホさんは、かつて大学で建築学を学んでいたという異色の経歴の持ち主。フロリダ州の常設公演『Drawn to Life』で主役のジュリー(Julie)役を務め、その卓越した表現力を認められて新作『ECHO』に抜擢されました。現在は、極限の信頼が求められるチーム演目のアーティスト、そして物語を支えるコメディパートの代役という、作品の要となる多角的な役割を担っています。
肉体の極限に挑むアクロバット演目で新たな挑戦を続けるミホさんに、多文化なルーツが表現に与えた影響と、舞台に込める想いを聞きました。
ルーツとアイデンティティ
Photo Jean François Savaria Costumes Nicolas Vaudelet Cirque du Soleil 2023
―― 昨日、公演を拝見しました。この地域に来たシルク・ドゥ・ソレイユの作品はすべて観ていますが、『ECHO』はこれまでとはまったく違いました。モダンで、美しく、繊細で、マジカルというのでしょうか。観客がとても集中していて、写真撮影が許可されている場面でも誰も撮っていないのが印象的でした。
ミホ・イナバ(以下、ミホ):ありがとうございます。そう言っていただけてとても嬉しいです。今の時代に、ライブパフォーマンスでこんなふうに深くつながれるのは特別なことだと思います。
―― まずはご自身のバックグラウンドについて教えてください。フランス人のお母様と日本人のお父様のもと、トロントで生まれたそうですね。
ミホ:はい。カナダのトロントで生まれ育ったので英語が生活のベースでしたが、家ではフランス語と日本語も話していました。土曜日は日本語学校に通い、日本のカリキュラムで中学レベルまで学びました。土曜日は日本食を食べて、日本語で過ごして、「土曜日だけ日本にいる」ような感覚でしたから、とても楽しみだったのを覚えています。フランスにいる祖父には毎年会いに行っていますし、日本にも行ったりして、日本・カナダ・フランスのすべてに強い結びつきを感じています。
―― 多文化の中で育った経験は、今のご自身にどんな影響を与えていると思いますか?
ミホ:とても大きいと思います。ひとつの国だけに属している感覚ではなく、常に複数の視点を持っている。その感覚が、表現の仕方や人とのつながり方にも自然と影響していますね。
建築からサーカスへ
――最初は大学で建築学を学んでいたそうですね。その道は自分が進みたいものではないと気づいたのは、どんなときでしたか。
ミホ:大学に進学したあと、サーカスの世界により深く触れるようになったことがきっかけでした。モントリオールはサーカス文化が大きい街で、ある日見た空中パフォーマンスに心を奪われ、より身体的でクリエイティブなキャリアを追求したいという衝動を抑えられなくなりました。その時点で、「もし本気でやるなら、片手間ではできない」と思い、大学を辞め、フルタイムでサーカスに向き合う決断をしました。
――その転機で、ワクワクと不安、どちらが強かったですか。
ミホ:正直に言うと、両方ありました。とてもワクワクしていましたが、同時に大きなプレッシャーも感じていました。大学を中退するのは勇気がいりましたし、建築学という自分にとって大切だったものを手放した分、「この選択は正しかった」と自分に証明しなければ、という強い思いがありました。でも、舞台に立ち、同じ道を進む仲間と出会い、経験を重ねる中で、少しずつ自信が生まれていきました。
――建築とサーカスは一見まったく違いますが、構造やバランス、空間認識という点では共通しているものがあるでしょうか。
ミホ:建築とサーカスは共通点があります。今でもノートやスケッチブックを持ち歩いています。舞台上での動線や立ち位置を考えるとき、ステージを描いて自分の位置を地図のようにスケッチします。動きも、簡単に絵にすると記憶に残りやすいんです。視覚的に整理する癖は、建築を学んだ影響だと思いますね。
トレーニングと規律
――National Circus School of Montreal(モントリオール国立サーカス学校)では、シールホイール(Cyr wheel)を専門にされました。この演目に惹かれた理由は何でしょうか。
ミホ:最初はパートナーアクロバットのフライヤーとして学校に入りましたが、その中でさまざまな分野を体験して、シールホイールを専門にすることを選びました。シールホイールは、私にとってダンスにとても近い感覚があります。音楽やリズムと一緒に動きながら、自分自身の身体だけで表現できること、そしてソロの演目を一から創っていくプロセスに強く惹かれました。
――技術面だけでなく、アーティストとしての考え方にも影響はありましたか。
ミホ:サーカススクールは、本当に厳しい環境でした。朝から夜までトレーニングが続き、覚えることも挑戦することも非常に多かったです。舞台の華やかさだけが注目されがちですが、その裏には、毎日の地道なトレーニングと心身の管理が必要です。そして、即興や創作の時間では、成功するかわからなくても挑戦することが求められました。みんなの前で、やったこともないことを即興でやるわけです。
―― 日本語ではよく「殻を破る」と言いますが、サーカススクールでの経験はそれでしょうか。
ミホ:まさにその通りです。即興や創作の課題では、みんなの前で試すことを求められます。疲れていても、うまくいくかわからなくても挑戦する。その積み重ねが、殻を破ることに繋がりました。自分を探すという、とても無防備なプロセスだからこそ、仲間との結びつきも強くなります。
『ECHO』で新たな挑戦
Photo Jean François Savaria Costumes Nicolas Vaudelet Cirque du Soleil 2023
――『ECHO』にはどのような経緯で出演することになったのですか?
ミホ:以前はオーランドの常設公演『Drawn to Life』に出演していました。ツアー公演に挑戦したい、もっとフライングやクレードルの演目をやりたいと思っていたところ、シルク内での異動候補として声がかかりました。
――『ECHO』のコンセプトである「人間と自然の再接続」「バランスの回復」を最初に知ったとき、パフォーマーとしてどのように受け止めましたか。
ミホ:最初に感じたのは、この作品では「人が同じ場所に集まり、同じ時間を共有すること」そのものがとても大切にされている、ということでした。テーマとして自然やバランスが語られていますが、私にとっては、観客の皆さんと同じ空間で呼吸をし、エネルギーをやり取りすること自体が、そのテーマを体現しているように感じます。今は、どこにいても情報に触れられる一方で、実際に同じ場所で何かを共有する機会は減っています。だからこそ、観客の方が舞台に集中し、パフォーマーとエネルギーを交換できるこの時間は、とても特別なものだと思っています。
Photo Jean François Savaria Costumes Nicolas Vaudelet Cirque du Soleil 2023
――『Drawn to Life』の主役から、新作『ECHO』での過酷なチーム演目への転向は、大きな挑戦だったのではないでしょうか。
ミホ:そうですね。特に「バンキーヌ(Banquine)」や「ヒューマン・クレードル(human cradle)」の演目では、複数のパートナーとの絶対的な信頼関係が必要です。初めてこの演目を行ったときは、今までにないほど緊張しましたが、チームでひとつの技を完成させるプロセスは、私にとって大きな達成感でした。
用語解説:極限の信頼が支える空中演目
- バンキーヌ(Banquine): 2人の土台(ポーター)が組んだ手の上にアーティストが立ち、その弾力を利用して空高く跳ね上げられ、別の土台の上へ飛び移る、あるいは宙返りをする演目。道具を一切使わず、人間の肉体のみで成立させる究極のアクロバットです。
- ヒューマン・クレードル(Human cradle / アクロバットの一種): 複数人数で行う、アクロバットの一種。ミホさんのような「フライヤー」を空中で投げたり受け止めたりするダイナミックな演目で、正確なタイミングとミリ単位の精度が求められます。
―― 高所での演技中、意識していることは何ですか。
ミホ:意識をひとつのポイントに集中させることです。身体は同時に多くのことを実行していますが、意識の焦点を絞ることが精度を保つ鍵です。どこに集中するのが一番良いかは、練習の中で見つけていきます。ダイナミックな技では今でも怖く感じますが、その一方でアドレナリンもあり、その感覚さえも楽しさに変えていけるようになりました。
Photo Jean François Savaria Costumes Nicolas Vaudelet Cirque du Soleil 2023
――コメディデュオ「Double Trouble」の代役を務めることもあるとか。空中演技とはどう違いますか。
ミホ:アクロバットは身体を整え、毎回同じ精度で技を出すことが求められますが、コメディは作品全体を俯瞰し、異なるリズムを瞬時に切り替える柔軟性が求められます。どちらも、私にとって大きな成長の機会となっています。
シルク・ドゥ・ソレイユでの生活:規律と変化の日常
――世界中を巡るシルク・ドゥ・ソレイユでの生活は、非常にハードなものと想像します。典型的な一日の流れや、心身を整えるために大切にしていることは何でしょうか。
ミホ:朝起きて水を飲み、朝食をとった後はストレッチやヨガから一日が始まります。その後はトレーニング、ショーコール、メイク、ウォームアップを経て本番へ。日によっては1日3公演というハードなスケジュールもあります。そんな生活の中で、私が最も大切にしているのは「睡眠」です。休むべきときにきちんと休み、心身をリセットすることで、常にベストなエネルギーを舞台へ持っていくことができます。
また、ツアー生活のスピード感には今でも驚かされますね。ひとつの街に4〜8週間滞在し、やっと慣れた頃にはテントが解体され、また次の場所へ。この刺激的なサイクルに適応するには、身体的なタフさだけでなく、精神的な強さも求められます。
振り返りとこれから:一瞬に込める「ドキドキ」
Photo Cirque du Soleil
――これまでの歩みを振り返って今思うこと、そしてこれからの挑戦について教えてください。
ミホ:自分の意志で道を選び、挑戦し続けてきたこと自体を誇りに思っています。今は『ECHO』という作品の中でさらに成長していきたいですし、来年のメキシコ公演など新しい場所での経験も楽しみです。仲間たちとは「いつか日本でも公演できたらいいのに」とよく話しているんですよ。
――最後に、これから自らの道を探そうとしている若い世代へのメッセージと、観客の方に持ち帰ってほしい「感情」についてお聞かせください。
ミホ:何事にも簡単な道はありませんが、本気で向き合うことで必ず見えてくる世界があります。自分のルーツや文化を「力(Power)」に変えて、自分を信じて進んでほしいです。
そして『ECHO』を観た方には、「ドキドキ(Doki Doki)」を持ち帰ってほしい。ライブパフォーマンスの魔法は、その一瞬を共有できることです。私たちが舞台から届けるエネルギーを受け取って、観客の方が「今、自分はここに生きている」と強く感じてくれたら、これほど嬉しいことはありません。
――ありがとうございました。
聞き手:オオノタクミ
※本インタビューは、公演を実際に鑑賞した翌日に行われました。
※本文中の発言は、英語から日本語に翻訳し、話し言葉を読みやすくするため、内容を変えない範囲で最低限の編集を加えています。
