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第53回 Freude! 『第九』 日記

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2月22日

両国国技館の前に立つ娘。

両国国技館の前に立つ娘。

「このコンサートで歌うために、韓国から来たんですよ」。にこやかに自己紹介をする隣席の婦人。「私の国では、こんなチャンスがなくて」。流暢な日本語だ。聞けば、79歳だという。前列に陣取るのは、ドイツ人らしい女性たち数人のグループ。手渡された資料によると、アルバニア共和国や、コソボ共和国からの参加者もいるらしい。そういえば、私自身も、このような形でコンサートに出場する機会には、来日するまで恵まれなかった。シアトルのベナロヤ・ホールを素人合唱団で一杯にし、歓喜の歌声を一斉に上げることができたら、どんなに素晴らしいだろう。

本番直前リハーサルが始まろうとする中、国技館の2階席から舞台を見下ろす。つい先日、入団を決めたような気がするのに、早くも本番の日が到来した。どれだけ準備に時間とエネルギーを費やそうとも、たった一度の本番は、一瞬とも思えるスピードで足早に駆け抜ける。人生とは、往々にしてそんなものだ。オリンピックの選手から受験生まで、そして学芸会の劇の練習をする幼稚園児まで、その「瞬間」をめがけて力を尽くす。浅草に通った夜を振り返りながら、感慨深くなった。第九にかけては、私は優等生とは言い難い。悲しいかな、ドイツ語の歌詞を覚えるには前夜まで手こずり、遂には匙を投げそうにもなった。しかし、泣いても笑っても、今日が本番だ。やがてシアトルに戻るかもしれない私たちが国技館で歌うのは、これが最初で最後だろう。多分、いや、きっと。「来年も一緒に歌おうね」。楽しそうに談笑する仲間の声を聞きながら、無意識のうちに視線をそらす自分がいた。新日本フィルハーモニー交響楽団のメンバーが次々に舞台に現れ始め、調弦の音色が響く。会場に到着し、1階のマス席に腰を下ろした夫と息子が、懸命に手を振るのが見えた。やがて、ソロイストや指揮者も登場し、緊張感みなぎる中、「第31回 国技館 5000人の第九コンサート」が幕を開けた。第一部は、歌劇フィデリオ序曲。第二部が、合唱団の登場となる「交響曲第九番ニ単調作品125 歓喜によせて」。ライトに照らし出され、合唱団の全メンバーが立ち上がる。5,000人の心がひとつになる瞬間だ。

5000人の第九コンサート。応援に来てくれた友人Kさんが撮影。

5000人の第九コンサート。応援に来てくれた友人Kさんが撮影。

「時空を超えて、荘厳な夢を見ているような迫力でした」。応援に駆けつけてくれた友人が、メールにそう書き送ってくれた。「すごいパワーだったよね。オーケストラもソロイストも、(合唱団に比べて)弱々しく聞こえたぐらいだよ」。息子も同じように言った。「ママ、目立ってたよ。歌いながら、いかにも楽しそうに体を揺り動かして。他の人は皆、真面目に直立不動なのにさ。」ハッハッハ。大したもんじゃない、あんたの母さんは。5000人の中で目立つなんてさ。私は照れ笑いをしながら、心で呟いた。そう、それはとてもとても楽しい「一瞬」だったのだ。シアトルで思い出のアルバムをひもとく時、両国でのシーンは歳月を経ても色褪せず、キラキラとその光を放ち続けることだろう。Freude!(ドイツ語で、「喜び」を意味する。)歓喜の歌声が、今も私の胸に響く。素敵な思い出作りのきっかけを作ってくれた仲間たちに、そして不肖の母の背を押し続けてくれた娘に、精一杯の感謝をこめて、「ありがとう」。

「5000人の第九コンサート」公式サイト
www.5000dai9.jp

掲載:2015年1月

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。

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