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35歳で渡米して起業 ソフトウェア制作会社 Emurasoft, Inc. 江村豊社長

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35歳で渡米を決意し、2001年にワシントン州レドモンド市で創業したソフトウェア制作会社、Emurasoft, Inc. の江村豊社長にお話を伺いました。
※この記事は2002年6月に掲載されたものです。

江村 豊 (えむら・ゆたか)

1965年 兵庫県に生まれる
1983年9月~1984年6月 ロード・アイランド州に留学
1985年 筑波大学第三学群基礎工学類に入学
1989年 筑波大学院工学研究科に入学
1991年 インテルジャパン入社
1992年4月~1993年1月 米国インテル社に駐在
1994年6月 インテルジャパンを退社し、独立
1995年8月 有限会社エムソフト(現 株式会社エムソフト)を設立
2000年11月 米国支社 Emurasoft, Inc. を設立
2001年7月 米国支社 Emurasoft, Inc.営業開始

【公式サイト】jp.emeditor.com

米国での会社設立

なぜ米国で会社を設立しようと思われたのですか?

高校の時に1年間米国に留学した頃から、アメリカで働いてみたいと考えてはいました。その後、前職で1年間カリフォルニアに駐在し、アメリカで働くということを体験しましたが、帰国後は日本で独立して会社を運営することに集中していました。ところが、1999年の10月に日本で私の会社に入社した人が、私の人生を変えるきっかけとなったのです。

シアトルで短期留学をした彼女はアメリカでの体験をいろいろと話してくれ、そのうちに私も再びアメリカに行きたくなってきました。また、米国でソフトウェア開発関連の会議に出席したりしているうちに、米国で事業をしたいという気持ちがおさまらなくなり、とうとう渡米して米国法人を設立することを決意しました。ずっと日本だけで会社を運営していても、安定して生活していけたと思います。しかし、アメリカで事業を運営するという夢を実現したかったのです。

シアトル近郊のレドモンドに決めたのは、シアトルの良いことをいろいろ聞いたこと、また、ソフトウェア制作会社やハイテク関連企業が多いというのが理由です。そして、昨年5月にまず彼女を含む社員がこちらへ来て会社の基盤を作り、同年10月に私が渡米しました。

業務内容を教えてください。

ソフトウェアの制作が中心です。既に日本で制作し、現在も販売しているソフトウェアもありますが、企業のためのカスタムソフトウェアの制作も行っています。

開発の中心は私ですが、今後は開発担当者を入れ、プログラミング関連書籍の翻訳やソフトウェアのローカライゼーション、および米国ソフトウェアの日本での販売や日本のソフトウェアの米国での販売を援助していく予定です。

プログラミングとの出会いと高校・大学時代

開発の中心は江村さんご自身ということですが、プログラミングはいつ頃から始められたのですか?

高校2年生の頃にNECのコンピュータPC-6001を購入し、プログラミングを始めました。当時はおもちゃのようなパソコンということで 『パピコン』 と呼ばれていましたが、とてもいい製品でした。

ゲームを作ってコンピュータ雑誌に掲載されたこともあり、そのうちの一つである 『ラリー16』 は、販売にまで至りました。船を動かして旗を取っていくだけのゲームですから、今から考えるととても簡単なものですが、これが当時で数十万円の売上になったのです。

しかし、「ゲームばかりやっていてはダメになるのでは」「他の勉強もしなくては」と思い、高校3年生になってからはコンピュータを使うのをやめ、ロード・アイランドのホープ・ハイスクールに1年間留学しました。

大学でコンピュータ・サイエンスを専攻されなかったのですか?

筑波大学で物質分子工学という基礎工学類の一つの分野を専攻し、コンピュータはあまり触りませんでした。

また、練習が週に4回もある混声合唱団という活発なサークルに入ったため、そちらの活動が中心の大学生活になりました。3年生では団長として約100名の団員をまとめてさまざまな活動を行い、人間的にある程度成長したと思います。でも、サークルと学業の両立はとにかくたいへんでした。徹夜で話し合い、朝ご飯をみんなで食べに行き、朝の授業も出られないなんてこともありましたよ(笑)。

再びプログラミングを開始されたきっかけは何でしょう。

大学院では形状記憶合金の結晶構造をX線で解析する研究を行いましたが、ここで偶然にもその解析用のプログラムを作ることになり、再びプログラミングを始めました。

これがとても楽しくて、やはり自分にはソフトウェア開発が向いているのではと考え始めました。

インテルジャパン入社でわかった日米の違い

大学院卒業後はどのようなお仕事をされていたのですか?

半導体にとても興味があり、卒業後インテルジャパンに入社しました。マイクロ・プロセッサー 『i486』 の回路設計部門に加わり、大学院でテスト用のプログラムを作った知識を活かすことができました。この仕事で1年間カリフォルニアに駐在することになったのです。

カリフォルニアでの仕事はどうでしたか?

日本から来たという自分の立場もあるかもしれませんが、同僚はとてもよくしてくれ、日本に比べると非常に仕事がやりやすく、楽しかったですね。

1年後、日本に帰ってみて、日米間の違いがよくわかりました。アメリカでも日本でも目標を作り、それを達成するために努力するわけですが、アメリカでは自分で提案し、自分で仕事を成し遂げ、自分から上司に成果を報告するというように、自分のために仕事をするわけです。日本では上司に怒られないよう、その場しのぎで何かをするという感じがあります。こういったことが、アメリカで働きたいという気持ちを強めたとも言えますね。

オンラインソフトの制作と公開


オンラインでソフトウェアを公開するようになったのはいつ頃ですか?

インテルジャパンに勤務していた時からいろいろなソフトウェアを作っていました。その中の一つである通信ソフト 『EmTerm』 のシェアウェア登録料が月に20万円ほどの収入に成長し、そのうちにソフトウェアの開発に集中したくなってきました。

退社後、しばらくはフリーランスでソフトウェアを制作していましたが、約半年後に会社を設立しました。業務の中心は 『EmTerm』 をはじめとするシェアウェア及びカスタムソフトウェアの制作です。

その後、多機能テキストエディター『EmEditor』を制作しました。『EmEditor』 は現在では日本語・韓国語・ドイツ語・英語・簡体中国語・繁体中国語と、6ヶ国語を揃えています。また、最近では国際電話への意図しないダイヤルアップ接続を防ぐ 『No!国際電話』 を公開しました。

このように、日本での仕事は安定し、家も購入したのですが、日本で同じことを続けていくよりはアメリカで挑戦してみたいと思うようになったのです。妻も賛成してくれて、ついに移転が決まりました。

シアトルの環境と今後の展開

渡米されてまだ1年弱ですが、シアトルはいかがですか?

シアトルの環境はとても気に入っています。緑も多いし、いいところです。また、会社を運営するにはいい場所だなと思いました。

今回、パート社員を募集したのですが、履歴書を送付してこられた方が200人以上もいたのには驚きました。日本よりも優秀な人が集まりそうです。ただひとつ、悩みを挙げるとしたら、仕事と家庭の両立です。一段落したら、家族と一緒にいる時間を大切にしたいですね。

今後の抱負を教えてください。

今後は、より積極的にいろいろなイベントや会議に出席して、多くの人に Emurasoft を知っていただき、受注を増やして会社の事業を拡大していきたいと考えています。

また、会社の雰囲気づくりも大事です。上下関係を押し付けることなく、お互いに尊敬し合い、社員の自由を重視し、開発などの仕事がしやすい環境を作っていきたいと思っています。

掲載:2002年6月 更新:公式サイトのリンクを変更

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