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平山 良作さん (Medical Technologist 臨床検査技師)

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シアトルの北に位置するエベレットのクリニックで、メディカル・テクノロジスト(臨床検査技師)として活躍する平山さんにお話を伺いました。
※この記事は2003年2月に掲載されたものです。

平山 良作(ひらやま りょうさく)

1988年春 沖縄県首里高校卒業・渡米

1991年夏 サウス・シアトル・コミュニティ・カレッジ編入

1993年夏 シアトル大学編入

1996年 シアトル大学卒業、スウィディッシュ・ホスピタル内のラボに就職

2000年 エバレット・クリニックに転職現在に至る

渡米

アメリカに来ることになったきっかけを教えてください。

小学校5年生の時、高校教師だった父が兵庫教育大学大学院に入学したため、兵庫県の社(やしろ)に家族全員で2年間暮らしたことがありました。沖縄といっても那覇という都会で育った私には、豊かな自然に囲まれた田舎の生活はとても新鮮で、大好きな 『トム・ソーヤの冒険』 の真似をして、あちこちを探検して歩いたものです。その時の経験が自然や動物、そして医学への興味を引き出したと言えるかもしれません。

転校したての頃はいじめられましたが、野球などを通して友だちができ、2年後に父が卒業して沖縄に帰るときには、「お互いに野球を続けて甲子園で会おう」と約束しました。中学でひょんなことから柔道部に入り、部長を務めた3年生の時には県大会で個人・団体戦で3位にまで行きましたが、高校ではやはり野球部に入部。1年生でレギュラーになったものの、ひどい腰痛に悩まされて針治療に通うようになり、大会出場は実現しませんでした。そんなつらい時期も自然医学や動物医学関係のテレビや雑誌は欠かさず見ていたのですが、やはりアメリカの学者や医師が出ていることが多く、あるアメリカ人科学者がアフリカでリサーチに取り組んでいるドキュメンタリー番組を見た時は、「情熱を持ってそういうフィールドに出ている人がいる。そんな人にいつか出会うことはできるだろうか」と考え始めたのです。また、ちょうどその頃、父方の祖母と叔父がたて続けに亡くなり、落ち込んだ父が「人生は短い。世界はでかい。好きなことをやりなさい」と言ったことで、アメリカへ行くことを決意しました。

なぜカンザスを選ばれたのですか?

父の知人でアメリカ留学経験者の方に、「カンザスは日本人が少ないので、英語の勉強になる」と言われたためです。しかし、英語ができないことをそれほど気にしていなかった私は、渡米後すぐに英語学校で1番下のレベルに入れられ、アルファベットの勉強からすることに。「アルファベットぐらいわかる。もっと上のレベルに入れてくれ」と直訴しましたが、逆に「あなたが何を言っているのかわからない」などと言われ、結局そのままになってしまいました。

カンザスでの生活はいかがでしたか?

ちょうど 『Karate Kid』 の人気が続いていた頃だったので、沖縄から来たというだけでアメリカ人の友だちがたくさんでき、最初の1年は日本人とまったく交流せず、手紙も読書も英語という英語漬けの生活を送りました。でも、ある日シャワーを浴びていた時、自分が何かを言おうとして口を開いているのに、言葉を発することができなくなっているのに気づいたのです。日本語を使っていないために日本語がおろそかになり、英語がまだそれほど上達していないためにまともに何かを言うこともできない・・・。考えるための言語がなくなっていた、そんな状態でした。「これではいけない。たまには日本語の本を読んで考えなければ」と、手紙や読書で日本語に触れる機会を作るようにしたら、バランスをとるのが下手な私は、渡米後2年目で日本人コミュニティに入ってしまし、日本人の彼女までできて、それまでとは正反対の日本語漬けの生活を送るようになってしまいました。

シアトルへ

シアトルへ来たきっかけについて教えてください。

英語コースを終え、レギュラーのクラスをとることができるようになったのは良かったのですが、初めての生物のクラス “Biology 101” は思ったほどの成績が出ませんでした。教授のところに何度も通って勉強しましたが、結果はそれほど変わらず、落ち込みましたね。ちょうどその時、オレゴン州に移ってトラベル・エージェントになる勉強をしていたとても優しい日本人の友達が、「すべての旅程を計画するから遊びにおいてよ」と誘ってくれ、初めて西海岸へ。その時はカナダに行く途中でシアトルを通っただけでしたが、その時のマウント・レーニエやピュージェット湾の美しさに強烈な印象を受け、カンザスに帰ってからはもっと生物を勉強するためにシアトルの大学に移ろうと決めました。

シアトルの大学での生活はいかがでしたか。

夏学期に留学生を受け入れていた唯一の大学サウス・シアトル・コミュニティ・カレッジへ編入。しかし、そこで生物のクラスをとった時も、「教授が悪いのか、それとも自分の英語や能力に問題があるのか」と悩むことになり、試しにノース・シアトル・コミュニティ・カレッジ(NSCC)で同じクラスを履修してみたところ、教授の教え方がとてもうまく、自分の成績も上がり、その後は生物関係のクラスはすべてNSCCで履修しました。そして、その教授に「大学は小さな大学、大学院は大きな大学がいい」とすすめられ、シアトル大学へ編入。根は真面目なものですから、シアトル大学ではまた気張りすぎてしまい、「山へでも行ってスッキリしてからゆっくり勉強しよう」とレーニエ山によく登りましたが、その後は勉強をする時間がない・・・(笑)。しかし、なんとか無事に卒業しました。

アメリカで就職

いよいよ就職。どのようにして仕事を見つけたのですか?

卒業してプラクティカル・トレーニング・パーミッション(労働許可証)を取得し、合法的に労働できるようになったとは言え、期限付きではなかなか採用につながりませんでした。でも、スウィディッシュ・ホスピタルにあるダイナケアというラボのマネジャーもしていたシアトル大学の教授のおかげで、ついにそのラボの臨床検査技師アシスタントとして採用が決定。しかし、アメリカの臨床検査技師はテクノロジストとテクニシャンに分かれ、前者は4年制大学卒業者、後者はコミュニティ・カレッジ卒業者が資格試験に合格する必要があるのですが、そのアシスタントは、高校生でもできる内容です。従って、1年間というプラクティカル・トレーニングの期間が終わってもH1Bビザ(専門職ビザ)を取得できる望みはないように思えました。そこで、パーミッションの期限切れが近づいてきたある日、仕事を紹介してくれた教授に「この仕事ではH1Bビザも取れないだろうから、日本に帰らないといけない」と相談したところ、ショアライン・コミュニティ・カレッジでテクニシャンになるコースを履修して資格を取得し、新たに就職して経験を積めば、テクノロジストになる試験も受けることができると教えてくれました。そして、ショアライン・コミュニティ・カレッジのアドバイザーも、私が既に生物学で学士号を取得していることから、2年間のコースを1年間で終えることができると教えてくれ、私は仕事を辞めて学校に戻りました。

卒業後はまたスウィディッシュ・ホスピタルのラボに戻られたのですね。

そこでもまた一波乱ありました。ショアライン・コミュニティ・カレッジ卒業前に、そのラボに出向いてH1Bビザの申請を依頼しましたが、なかなか良い返事が返ってこないのです。諦めて日本に帰るしかないかと思いましたが、ダメでもともと、と、以前働いていた時に良くしてくれた上司に「本当は簡単な手続きなのに、前例がないのでやってくれない」と直訴。すると彼が「1日だけ時間をくれ」と言い、その翌日に採用担当者から電話がかかってきて、再び面接を受け、なんとH1Bの申請をサポートしてくれることが決定しました。

そこからこのクリニックへ移られた経緯を教えてください。

それからは夜に働く生活がスタート。当初は昼間に働くはずだったのですが、ビザがおりた時には空席がなくなっていたのです。夜は働きたがる人が少ないのでいつも手が足らず、職員はいつもギスギスしていました。まるで牢獄にいるように感じ、かなり落ち込んだこともあります。でも、2年間ガマンして、そろそろ疲れてきたなと考えていたところに、学生時代にインターンシップをしたこのクリニックからお呼びがかかりました。「仕事を探している」と話していたのを覚えていてくれていたのです。面接で採用担当者が「給料はどのぐらい欲しいか」と聞いてきました。「そりゃもちろん高いほうがいいに決まっている」と言ったところ、「それではこの2つの数字のうち、どちらがいいか」と2つの金額を提示され、迷わず高い方を選びました(笑)。テクノロジストのアシスタントとして始まったキャリアですが、自分も成長しているんだと、感慨深かったです。

メディカル・テクノロジストとして

現在のお仕事について教えてください。

私の持っている資格は、ナショナル・クレデンシャル・エージェンシー(National Credentialing Agency)による臨床検査科学者(Clinical Laboratory Scientist)です。これは資格取得の後も3年ごとに再試験に合格するか、医療分野の社会人教育クラスを履修する必要があります。従って、仕事をしなから常に勉強する毎日で、学生の頃よりも勉強していますよ(笑)。私の職業名であるメディカル・テクノロジストは米国臨床病理学会(American Society of Clinical Pathologist)という機関が承認する資格で、一度試験に合格すれば、二度とテストを受ける必要もクラスを履修する必要もありません。その資格を取れば楽ですが、私はあえて新しい情報を学ぶ情熱とプレッシャーを生み出し、仕事に対しても自分に対してもいい具合に影響させることにしているのです。

科学と医療の進歩のおかげで、血液・尿・体液・便などの検査をすることで患者さんの健康状態についてだいぶんわかるようになってきました。機械やコンピューターの導入でより正確な結果を短時間で出すことができます。私の仕事は患者さんたちの健康状態のインベスティゲーターみたいなもので、血液学的検査・血清学検査・血液型検査・生化学検査・検尿などがそのツール。生化学機械の管理も任されているため、生化学に使われる試薬の管理からテスト結果の管理などもやっています。

血液は、赤血球や白血球のような生きた細胞の部分と、それ以外の部分に分けられます。血清学検査や生化学検査はその細胞を除いた部分を使って行いますが、それには水分・蛋白質・糖分・脂質・ミネラル・ビタミン類から、免疫の抗原や抗体が含まれ、生化学検査は腎臓・肝臓の機能状態から、糖尿病・痛風・高脂血症・癌など、あらゆる病気の検診や治療に役立ちます。

アメリカ人と働くことについて、苦労はありますか?

日本では働いた経験がないので比較はできませんが、コミュニケーションでは気苦労がありますよ。最初の頃はどもってしまったり、日本のビデオを見た翌日には英語が出てこなかったりしたことがあったのですが、ここではみんな仲がいいので、そんな私に「何考えているの?黙っているとわからないよ」と、明るくアドバイスをくれるんです。ですから、しゃべれない時はしゃべれないなりに、「ごめんなさい、昨日は日本語をたくさん使って、今日は英語のスイッチをつけるのを忘れてしまったので、ちょっと言葉が出てこないんだ」「今日は疲れているからあまりしゃべらないけれど、予定の仕事は集中してちゃんとやるよ」などと、言葉で気持ちや状況を説明するようになりました。また、プロフェッショナルのアメリカ人は、気分が悪くても、何か問題があっても、顔に出さずにニコニコしています。それはすごいことですが、そのおかげで逆に本音がわからないこともあります。それが悪い方に働くと、自分のPRを重視するあまり、自分のミスを濁してしまう人が出てきてしまう。私がスウィディッシュ・ホスピタルで働き始めた時、そこのマネジャーに最初に教えられたことは「嘘だけはつくな」でした。「人の命を預かっているのだから、間違いを犯したら、それをできるだけ速く正すようにしなさい」。ですから、何か問題が起きたときには、正直な人がすべて背負ってしまうことも。私は、間違わないように細心の注意を払い、自分を守るためにすべてを記録し、コピーをとっておくようにしています。

これからの抱負を教えてください。

もう少し自分を知りたいですね。自分ができること、自分がやりたいことを、今の仕事を土台にいろいろ見つけていきたいと思っています。スウィディッシュ・ホスピタルで働いていた頃、川辺ハウスという日系人向けの老人ホームで『お年寄りでも簡単にできるヨガと運動』という話をさせてもらった際、そこにいたあるおばあさんと友だちになり、家族のように頻繁に見舞いに行くようになりました。そのおばあさんに、「あまり忙しいことしなさんな。そんなに忙しくしなくても、人に対していいことはできる」と言われて、今の自分でもできることをしようと思うようになったのです。しかし、おばあさんがどんどん痩せていく姿を見ていると会うのがつらくなってきて、「さようならをする時は笑顔で。その笑顔をいつも思い出すから」と言ったのですが、それからは私が帰る時は笑顔で手をふってくれました。そのおばあさんは昨年10月に亡くなりましたが、心のコミュニケーションができたことで、とても救われた気持ちがしています。

最近、父が電子メールを勉強してメッセージを送ってくるようになりました。父の言っていることはよくわかりますし、父も私がどのへんで生きているのかわかっているので、今年の始めには、「1分には1分の課題、1日には1日の課題、1年には1年の課題がある。でも、人生にも人生の課題がある。それを忘れないようにしなさい」と、あきらめのようなメールが来ました(笑)。仕事が嫌だなあと思っても、これは今日の課題なのだと自分を管理し、これをやれば次に行けると思い、前向きになっていく・・・。簡単なことで、誰でも知っていることですが、実践するのはなかなか難しいものです。

私の来た道は時間がかかりすぎていて、ドロドロしています。今後まだまだ時間がかかることをするかもしれません。でも、これからも自分が本当に何をしたいのかを見つけるために、いろいろなことをしていきたいと思っています。

【関連サイト】
Seattle University
South Seattle Community College
Swedish Hospital
Everett Clinic

掲載:2003年2月

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