| | 2005年9月9日(金)たくさんの寄付 |  |
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| ニューオリンズから避難し、ヒューストン→ダラス→メンフィスと移動を重ね、ようやく親戚の住むシカゴ郊外に着いてから約1週間が経ちました。当初、私たち一家3人の所持品はスーツケース1つ分だけでしたが、多くの人たちから洋服や子供のおもちゃ、本など、多くのものを提供していただき、毎日洗濯しなくても生活できるようになってきています。また、現地の学校も被災地の子供をすぐに受け入れており、息子も来週から幼稚園に通うことになりました。突然始まった新しい町での生活ですが、たくさんの方々に助けられ、私達一家も地に足が着いてきました。昨晩は「外に出て、ゆっくりと食事を楽しんでリフレッシュしてほしい」と、地元で人気のステーキ&シーフード・レストラン
"Foxfire" を経営するディック・オゴーマン氏(写真左)にご招待を受けました。家も会社も仕事も失くし、当分の間、レストランで食事をすることはできないだろうと思っていましたが、久しぶりにそれなりの洋服を着て、同じく避難してきた姑夫妻と久しぶりの外出。予約なしではなかなか入れないという同店はオシャレをしたローカルたちでとても賑わっていました。食事は申し分なく美味しくて、私達も久しぶりに全部平らげてしまいました(ジューシーで柔らかいお肉は最高!)。しかし、何より感激したのは、個人的な知り合いではない私達を快く迎えてくださったオゴーマン氏とそのスタッフの温かい心遣いでした。同店のサイトはこちら。(み) | 
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| | 2005年9月5日(月) シカゴ到着 |  |
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昨夜、ニューオリンズ市内を取材されていたフジテレビのクルーと話をしました。観光都市だった町の無残な姿、市内の被災者搬送が着実に進み、市内にはいたるところで軍隊の姿が見られ、治安維持がなされていること、決壊した堤防が明日にも大量の砂袋で一時修理が完了することなどを伺いました。自然災害から人的災害が問題視され、政府の対応の遅さにナギン市長も声を荒げてインタビューに答えているように、国内でも連邦政府の対応の遅れに批判が強まっています。と同時に、同市長も同じく被災者以外から強い批判を受けています。確かに、自力では避難できない人たちを避難させる方法は、私の覚えている限りでは提示されていませんでした。このように、ニューオリンズにも問題は多数あったと思います。しかし、被災後のあまりにも遅い政府の対応の方に私達被災者は言葉では表せない怒りを感じています。近代社会のアメリカで、水が届くまで5日。実際に軍隊の姿を町で見るまで6日・・・。
ハリケーン・カトリーナ上陸3日前ごろから、ラジオ・テレビ・新聞等で市長らが頻繁に避難勧告を出し、近所のお年寄りや車のない人を乗せ、協力し合って避難すること、避難する道順・避難したほうがいい場所などが詳しく報道されていました。そして、上陸の前日は勧告が避難命令・強制避難に変わり、多くの人が避難しました。私の隣近所の人は「前回避難した時は想像を絶する渋滞だったし、家は頑丈な2階建てだから残る」と言っていましたが、確かに「今回も大丈夫だろう」という意識が多くの人にあったと思います。また、避難するにはホテル代やガソリン代などのお金がそれなりに必要です。しかし、ニューオリンズの人口の約7割を占めるアフリカン・アメリカンは、貧困層の大多数を占めています。本当に誰もが予測しえなかった事態。避難しなかった人、避難できなかった人、これから市内の水抜きが始まり、数千人に上るとも言われる遺体の収集が始まります。
今、町の復興を絶望視する声も、「もともと海抜0メートル以下のところに町を作るべきではなかった」などという声も上がっています。しかし、1718年にフランス人によって創設された地域フレンチ・クォーターは破壊されることなく残っています。1803年にアメリカ領になってから土地開発が進んだガーデン・ディストリクト、アップタウンも多少のダメージを受けましたが、当時の歴史は今でも残っています。サトウキビを耕して南部の発展を助けた奴隷達、フランス・スペインの植民地からアメリカになったルイジアナ。南北戦争、ニューオリンズの激戦、ジャズ、クレオール、ケイジャン・・・等、歴史深い町は海抜0メートル以下の町として発展してきたのです。私たち被災者の多くはニューオリンズ、および被災した土地の復興を待ち望んでいます。あまりにもひどい爪あとを残したハリケーン・カトリーナ。さまざまな批判が各所に向けられていますが、1日でも早く私達被災者に日常が戻ることを祈っています。現在、私達はシカゴ郊外の親戚宅に滞在しています。近所の人達が私達に洋服を譲ってくれたり(写真上)、食べ物を持ってきてくれます。皆さんの親切が本当に心にしみます。(み)
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| | 2005年9月3日(土) テネシー州メンフィスを経てシカゴへ |  |
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昨日までダラスにいましたが、今日はメンフィスにいます。今からシカゴへ向けてまた長距離運転です。夜中にハイウェイを通っていた時、たくさんのルイジアナ・ライセンス・プレートを見ました。私達と同じように、場所を移動してはあと何ヶ月かかるかわからない避難先を探しているようです。各州の公立学校が被災者の子供達を受け入れることをラジオで知りました。私達も息子の受け入れ先を探さなければなりません。シカゴで見つかればいいけれど。今日、災害発生から5日目にして、水や物資、ナショナル・ガードがニューオリンズに来ました。地球の裏側ではなく、同じ国内なのに、5日もかかるなんて・・・。親戚が一昨日、フレンチクォーターのホテルから脱出してきましたが、町は銃を持った若者が野放し状態になっており、彼女達は1人もナショナル・ガードを見なかったそうです。チャリティ・ホスピタルの患者の搬送も昨日行われており、被災後亡くなった多くの患者が水没した地下室に放置されているそうです。信じがたいこの事実。この先進国でなぜ5日も水すら届かないのか・・・。(み)
メンフィスを出発し、55線でシカゴへ向かっています。セントルイスを越えたところから、対向車線を多数のパトロール・カーなどに先導された電線作業車や小型のボートを乗せたトラック、救急車、簡易シャワー運搬車、簡易トイレ運搬車など数百台のトラックが通り過ぎていきました。次の出口のガス・ステーションで休憩していると、私達の車のライセンス・プレート(LOUISIANA
と書いてある)と見た警官から、各州から救出・復旧援助チームがニューオリンズに向かったことを知らされました。5日目にして水や食料を投下されるのをテレビで見ましたが、実際に自分の目でニューオリンズへ向かう多数の救出チームを見たのは今日が始めてでした。どんどん悪化するわが町を目のあたりにするたび、言葉には表せない悲しみ・怒り・苦しみを感じましたが、救出チームが実際にニューオリンズへ向かっているのを見て「どんなに時間がかかっても、あのニューオリンズは戻ってくる」という気持ちがまた湧いてきました。帰省許可が出てニューオリンズに戻ったら、私も全力をあげて復旧に力を注ぎます。ニューオリンズの代表曲の1つ、『Do
you know what it means to miss New Orleans』 を聴きながら、シカゴまであと一息です。(み) |  |