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第7回:安全第一

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第2次世界大戦前の1907年に四国から移民し、クボタ・ガーデニング・カンパニーを起業した造園家・窪田藤太郎氏がシアトルに開いた日本庭園 『窪田ガーデン』。開園当時の5エーカー(6,120坪)から20エーカー(約2万4,500坪)に拡張され、1987年からシアトル市が所有し管理しているこの歴史的建造物に本格的な石垣が完成したのは2015年。そのプロジェクトを発案し、完成まで携わった彫刻家・児嶋健太郎さんの実録エッセイ。

灯篭
まだ積み重ねただけなので安定が悪い。カイルが上まで上ってしまう。
もくじ

参加者たちの愉快な一面

カイルはカリフォルニア石工たちの親玉的存在で、静かなカリスマ性を発していた。彼と話していると、この人は本当に純粋に石が好きなんだな、と確信させられる何かがあった。若い頃からさまざまなプロジェクトに参加して、今は自分の会社を持っている。また、登山家でもあり、ロッククライマーでもあった。だから、目を離すとスルスルとどんなとんでもないところでも登ってしまうのであった。彼のスマホの写真には、彼がいろいろな所でいろいろなものに登った写真がたくさんあった。見ていてこっちが肝を冷やすような写真ばかりであった。

ワークショップの終わり頃に少し時間に余裕があったので、田部さんに頼んで灯篭を作る指導をしてもらった。

6つの石を積み重ねて作ると、結構大きなものになって、高さは2メートルを超えた。急いで作ったので石と石のすわりがいまいちだったが、後でゆっくり調整すればいいやと思っていた。

昼食の時に、現場から「ヘイ」とカイルの声がするので見ると、なんと彼はフラフラ揺れる灯篭の天辺に片足で立っていた。得意そうな笑み満面で、よっ、ほっ、とポーズをとっている。

「オーノー、カイル勘弁して、下りてくれー」

頼むと、スルスルと下りてきた。

「カイル、なんであんなの登るの?」
「そこにあるんだから、しょうがねーじゃネーか」
「そこにあるってね。いろんなものがそこにあるじゃん」
「だから、俺はいろんなものに登るんだ」

即答だった。

窪田ガーデンはシアトル市のものなので、そこで作業するのに安全には神経質なくらいうるさかった。特に、このワークショップは何百人もが見学に訪れたので、窪田ガーデン理事会員はピリピリしていた。それと、シアトル・タイムズなどの大きな新聞にも何回か載り、注目されているのがわかったので、ヘルメットはもちろん、蛍光ベスト、耳栓、ゴーグル、手袋は常備していなければならなかった。

ワークショップが始まったばかりの頃、シアトル・タイムズのローカル部の一面にジョナサンの上半身裸が載った。これも、記者のアラン・バーナーが来て撮影してくれたものだ。ジョナサンの肉体美を前面に出すことが狙いだったらしく、なかなか話題になったらしかった。

しかし、その記事がオンラインに出ると、すぐに僕に連絡してきた人があった。ジョナサンがベストを着けていない事を指摘して(ヘルメット、耳栓、ゴーグルはしていた)、業務安全保健事業団(OSHA)に睨まれるぞ、と言った。抜き打ちで見学しに来るかもしれないから、用意しておけ、とも言われた。しょうがないので、次の日からは「シャツは着てなくてもいいけどベストは着けるように」と決まりをつくらなければならなかった。(このベストは寄付してもらったものだが、どうも寒い時用のベストらしく、すごく暑かった。)

ケビンはカイルに雇われている石工だった。自分が住んでいる場所が自慢らしく、その写真をよく見せてくれた。確かにきれいな海岸沿いの写真や杉や松の巨木が立っている夕焼けの林の写真はすごかった。自慢したくなるはずだ。

しかし、「で、家はどんなところなの?」と聞くと、「うん、まあ、そうなんだよ」とか言ってはぐらかしてしまうのであった。

後になって少しずつ話してくれたことから、ケビンの住んでいるところには電気がなく、最寄の町からかなり離れた不便なところにあるらしかった。ケビン曰く、「電気がないのはどうにでもなるけど、冷蔵庫がないのはまいるよなー」

だから家の冷蔵庫が羨ましい、と何回か言っていた。さすがこの人も変わっていた。

僕ら石割班のいた現場は、粟田社長や石工の関口さんやラモンからなる石積み班より高いところにあった。時々、石割場の喧騒から離れて、社長達のいる下の現場の方を見に行った。

関口さんの一日の運動量は半端じゃなかった。僕ら石割り班は上半身が中心だったのに対して、関口さんは足場の非常に悪いところで(石垣の中に立っているので、いつもグリ石の上に立っている)一日中立ったりしゃがんだり、かなりきつい姿勢で積む石の下に艫介石を挟んだりと、体全体を酷使する、ともかく大仕事なのである。(艫介石は積む石の傾斜を決める大切な石である)。それでいて、細かい調整に気を使う仕事でもあるのだった。経験がいる仕事である。関口さんも寡黙な人だったので目立たないのだが、彼の影に徹した縁の下からの支えがワークショップの見えない要となった。

目立つ日本人は、自称・粟田家グルーピーの漆原さんだった。彼は目がギョロッとしていて、見るとおっかないのだが、すごく楽しいひょうきんな人なのである。言葉が通じなくても人を笑わせようとして時々不思議なパフォーマンスをしてくれるのだった。それも、一人ではできないようなパフォーマンスをするのだが、協力している人達もあまりわけがわかってやっている風ではなかった。(例えば、漆原さんをうつ伏せの姿勢のまま二人に持ち上げてもらって、何回か前後に揺らしてもらう。そして三人で大げさなポーズをとる。)しかし、すごくおかしみというか可愛げというかがあって、皆、爆笑はしなくとも(意味がわからないから)、楽しかった。彼が「パフォーマンスします!」と(日本語で)言うと、皆静かになって今度はどんなことをするのだろうと楽しみにするのだった。

「じゃ、あんたやってみ」

石を積んでいるところからは石割現場が見えないのだが、社長は音だけで誰が石を叩いているかわかっていた。

僕も、マットとカイルの出す音はなんとなくわかったが、一人ずつの音など聞きわけられなかった。その上、社長はいつ見ているのかわからないが、誰がどの石をどれだけの時間をかけて形付けたかがわかるらしく、時々、「健太郎、デリック呼んできて。あいつが昨日からがんばっていた石積むから」といったりするのだった。これほど人をよく観察して、叩き方と音に集中して、仕舞いには一人ひとりの癖までわかってしまうとはと、ほとほと感心してしまった。

社長を見ていると、彼は石を積む、というより、人を積むと言うのか人格を積んでいるように見えた。

何度も「俺なんか本の表紙に過ぎない。お前らがいい石を送ってくれなきゃ、俺なんかなんもできないわけだ。お手上げになるんだ。だから、石割も、石積みも、一人一人が大切になるわけだし、皆がいなきゃできないんだ」と言っていた。

僕がそれを訳すたびに見た、石工たちのうれしそうな、誇らしげな、満足そうだけれど気合の入った表情は忘れられない。こうやって、現場の心を一つにしていくんだな。(社長が参加者一人一人の名前をすぐに覚えてしまったのも、みんなうれしかったようだ。)

一度、昼食の時に見学していたらしいおじさんが、

「おお、なんだー、石積んでるだけじゃネーか。なんだよ、大騒ぎしやがって。こんなんだったら俺の五歳の姪にだってできるぜ。誰かに説明してもらおうじゃネーか。おお?俺は暇人じゃネーから説明は5分以内な」

と、とんでもないことを言ってきた。

カチンときたが、こんなのいちいち相手にするのもつまらないな、どうしよう、と思っていると、マットが信じられないくらい外交的なやわらかい口調で「ああ見えて、簡単じゃないんだ。適当に石を置いているように見えて、ちゃんと経験とノウハウに基づいてやってるんだよ」というような説明をした。するとそのおじさんはそれでも「ええ?大騒ぎしやがって。なにが日本だ。なにが職人だ」と、悪態をつきながら行ってしまった。

昼食のテント全体がイライラピリピリした空気に包まれた。

その失礼なおじさんが行ってしまった後で、社長を囲んでそのことを話していると、カイルが

「スミノリ、あんただったらどう答えた?」

と聞いた。

社長は面白そうに、ハンマーを取りあげ、スッと柄を先に持ち上げて渡すような格好をすると言った。

「じゃ、あんたやってみ」

これは、うけた。

さっきまで漂っていた少し緊張した嫌な空気がサッと吹き飛んだ。本当にできる人はちゃんと修行と訓練をしているから、こんなに静かでしっかり根付いた自信が持てるのだ。だから、ちょっと勘違いしている人にもイライラしないのだ。

さすが、社長。

筆者プロフィール:児嶋 健太郎
彫刻家。グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社に就職。2005年、シアトルのマレナコス社に転職し、石を扱うさまざまな仕事を手がけている。2006年のインタビューはこちら

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