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第5回:石垣ワークショップ、参加者の面々(2)

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第2次世界大戦前の1907年に四国から移民し、クボタ・ガーデニング・カンパニーを起業した造園家・窪田藤太郎氏がシアトルに開いた日本庭園 『窪田ガーデン』。開園当時の5エーカー(6,120坪)から20エーカー(約2万4,500坪)に拡張され、1987年からシアトル市が所有し管理しているこの歴史的建造物に本格的な石垣が完成したのは2015年。そのプロジェクトを発案し、完成まで携わった彫刻家・児嶋健太郎さんの実録エッセイ。

クレーンとワイヤーで石を吊り上げる。
もくじ

心理学者、クレーン操縦者、きこり・・・

もう一人変わった参加者は、心理学者だった。彼はフィリップといい、髭をはやした大男だった。でも、話すと声のピッチが意外に高くてなんとなくかわいげがあった。ワークショップには真新しい作業服で現れた。

「心理学者って、何するの?」と聞いてみると、彼は大学で心理学を教え、矯正施設で何かプログラムをしているそうであった。

フィリップは石に関して全くの素人だったがとても根気強く、一つの石に二日間かかりっぱなしでも諦めなかった。とても張り切っていて、教えがいもあった。ワークショップの間に花崗岩に目覚めたらしく、終わったときに石彫のクラスを探して石を彫り始めたそうである。それも、初心者なのにどうしても花崗岩を彫るんだと言い張って、先生をあきれさせたそうだった。(花崗岩はとても硬いので初心者には普通勧めない。)「フクロウ、彫っただろ。どんぐりも彫った。今度はもっと大きなどんぐり彫ろう。」半年経ってから彼に会ったときに言ってくれた。あのワークショップで石に目覚めて、それを続けている、というのはうれしいものである。純徳社長にフィリップのことを報告すると、喜んでいた。

シアトルの公園局から派遣されたクレーンのオペレーターはレイというおじさんだった。この人は少し手荒い運転をするので少しおっかなかった。クレーンがこの現場にはでかすぎたこともあったのだが、社長が「石を上に上げて」、とサインを出すと、彼はウィンチでワイヤを引き上げるのではなく、クレーンを立てるので、確かに石は上がるが向こうに行ってしまうのであった。

1980年代から活動している英国のロックバンド、シャーデーの 『Smooth Operator』 という有名な曲があるが、レイはすぐに “Not so smooth operator” というあだ名がついた。しかし、彼に言わせると、あんなに気を使ってクレーンを操作したことはなかった、気を使った、とのことだった。「でも、楽しかった。ああいうプロジェクトに参加できたのは光栄だ」とワークショップの終わりの頃に言われて、驚いた。あの仏頂面で無口の彼にそこまで言わせたのはなにかあったに違いなかった。

レイの相方のランスは、この人はこの人でリラックスしすぎではないかと思うくらいリラックスした人だった。彼の仕事は石をワイヤで吊るしてそれが空中を飛んでいるときに周りの人が危なくないように確認することだった。しかし、彼は初っ端に「俺、石なんか吊ったことない。勉強するつもりだからどんどん自分達で石を吊ってくれ」と宣言した。彼もレイと同じく、最後に改まって感謝してくれた。皆に気に入られた、いい人だった。

マイケルはミシガンの人で、普通の人と作りが違うのではないかと思わせるほど頑丈にできたおじさんだった。彼の体力と底力に驚いて、「マイケル、あんた仕事は何してるの?」と聞くと、「今はミシガンの森林局の仕事をしているが、昔はきこりをしていた」という。「きこりは危ない上、ものすごくきつい仕事なんだ。」 そして、炎天下でも好んで日があたっているところに行ってしまうのであった。「マイケル、暑くないの?日射病になるよ、大丈夫?」と声をかけるのだが、彼は「俺は熱探査用小型コンピュータ制御ミサイルなんだ。暑いのは大好きさ。」と笑顔で大汗をかきながら言うのであった。

さて、このワークショップでもそうだったが、ポートランド日本庭園のキューレーター、内山貞文さんには、いつもお世話になっている。

内山さんは日本とアメリカの文化の生きた架け橋とでもいうべき人で、その哲学と実際にやろうとしていることにとても共感を覚えるのである。今、内山さんが手がけている長期プロジェクトは、日本文化・伝統技術などを教えるアカデミーみたいなものの設立だ。普通、アメリカで日本の伝統技術を学ぼうとしたら本を読んだり人に話を聞いたり独学でがんばるか、日本に移住して修行するかの選択しかないので、その中間に存在する教育の場を作りたいそうである。

嬉しさのあまり胴震いしそうになってくる。ぜひとも実現してもらいたいものだ。

2015年から2016年にかけてのポートランド日本庭園の拡張工事の一環で大きな石垣が必要になり、その建設を粟田建設に頼んだことから、今回のワークショップにポートランドで石垣の建設に携わることになる人たちが参加した。(内山さんも最初の数日ワークショップに参加してくださった)

その一人がラモンだった。

ラモンは日本勢(社長以外)と同じホテルに泊まったので、送り迎えもしてくれて助かった。ラモンは日本語ができないし、日本勢は英語もスペイン語もできなかったが、意思の疎通はどういうわけかできていたみたいだった。

ラモンの腕前は鑿とハンマーのリラックスした握り方ですぐわかった。ハンマーをふらせると無駄なエネルギーをまるで使わないピリリッとしまった腕の良い職人のふりかただった。彼はすぐ日本勢の目について、純徳社長の横について石を積むときの調整を助ける大切な役目を任じられた(身振り手振りで)。社長との細かい石の調整のやり取りも言葉なしで余裕でこなしていた。「石語」はどうやら全世界共通らしい。ラモンも日本勢を気に入ったみたいで、意気投合しあっているように見えた(身振り手振りで)。

ラモンは黙々と働き、しっかり仕事の流れを観察し、理解して、先の先を読んで行動するので重宝がられた。礼儀正しく、時間に厳しく、なんとも日本人的だった。社長がワークショップの中盤にポロッと、「ラモンを日本に連れて帰りたいくらいだ」と言った。

これはラモンにとって最高の賛辞だったが、彼は、あくまでも静かに、満面の笑みをたたえていた。

一度、日本勢がラモンに毎日の車の運転のお礼をあげようとしたのだが(僕がお礼をしないといけないのに!)、ラモンはかたくなに受け付けないのであった。最初は「いえ、いえ、そんな」という感じだったが、日本勢が「どうしても!」と、お金をポケットにねじりこもうとすると、ラモンは逃げるのであった。本当に日本人みたいな人だった。彼はあまりにも役に立ってくれたので、本当は最初の一週間の参加の予定だったのだが、無理を言ってずっと残ってもらった。

もう一人、ポートランドからの参加は、アダムという非常に印象のいい若者だった。若いが庭師主任で、有能な剪定師だそうだった。剪定師によくある小さくて細くて、強い、そういう体格をしていた。彼も残念ながらワークショップ全部は参加できなかったが、いろいろ楽しんでいったようだった。

後日談になるが、アダムはその後、日本に短期修行をしに行った。アダムと社長、あと今回シアトルに来た日本勢の数人が日本のどこかのお店で楽しく飲んでいる写真を Facebook で見た。他人事なのだが、こういう人間のつながりを見ると、どこか深いところからふつふつと嬉しさがこみ上げ、知らないうちに大きな笑みを浮かべてしまうのである。

筆者プロフィール:児嶋 健太郎
彫刻家。グアテマラで生まれ育ち、米国で大学を卒業した後、ニューヨークの彫刻関連のサプライ会社に就職。2005年、シアトルのマレナコス社に転職し、石を扱うさまざまな仕事を手がけている。2006年のインタビューはこちら

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