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「日本人唯一の "隻眼のパイロット" として、若者の教育に貢献したい」非営利団体 Aero Zypangu 代表 前田伸二さん

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前田伸二さん

交通事故で右目の視力を完全に失いながら、事業用操縦士(コマーシャル・パイロット)になるという幼い頃からの夢をアメリカで実現した前田さんにお話を伺った。

もくじ

交通事故による右目失明で絶望

幼い頃から空に憧れ、「パイロットになる」という目標に向けて大学で勉強を始めた矢先、交通事故で右目を失明。一時は死ぬことも考えた前田さんを救ったのは、高校時代の恩師の言葉だった。

幼い時に飛行機から見た故郷の北海道十勝の美しさに感動したのがきっかけで、空に憧れるようになりました。その憧れは次第に「できればパイロットになりたい」という夢に代わり、中学卒業後に入学した山梨県の日本航空高等学校で、「整備士になりたい」「パイロットになりたい」「空港で働きたい」という高い志を持った人たちに強い刺激を受け、夏の飛行訓練の後に「絶対に事業用操縦士(コマーシャル・パイロット)になりたい」と強く思いました。

でも、日本航空高等学校から日本大学の理工学部航空宇宙工学科に入学して、進学校から来た人たちや、東京大学や東北大学の航空宇宙工学科に受からずに来た人たちの学力に追いつこうと、文字通り朝から晩まで必死に勉強し始めた直後の1998年6月、親に内緒で乗ったバイクで交通事故にあいました。

その結果は、脳挫傷・頭蓋底骨折という大怪我による、右目の失明でした。当時、日本では、航空会社のパイロットになるには、短大か大学を卒業し航空会社の養成コースに進むか、航空大学校に進学するか、または自衛隊に入隊するという方法がありましたが、片目が見えなければパイロットには絶対になれません。今はこうして当時を平然と振り返ることができますが、片目が見えないというだけで「障害者」となって途方に暮れ、就職活動では「障害者はいらない」と言われ、絶望しました。

ある日、尊敬する高校の恩師に電話で「これまで生きてきたけど、人間としての価値がないんじゃないか。人に会うのも嫌だ。死にたい」と打ち明けました。

すると、恩師は「死にたいか。じゃあ、死になさい」と電話を切りました。かなりの荒療治ですよね。でも、それから10分後、先生は電話をかけてきてくれて、「せっかく生き残ったのに、死ぬのはどうかと思うぞ。ま、死にたいなら死になさい。でも、前田が体験したように世の中は冷たいもので、お前が死んでも友達であっても覚えてくれてるのはせいぜい半年。その後は、”そんなやつもいたっけ” というぐらいだ。でも、一番心配している両親に対してどうするんだ。自分は死ねば楽になるだろうが、両親がお前の事故と障害で受けた傷、そして息子を自殺で亡くすことによって受ける傷は、誰が癒すんだ。確かに苦しいだろうが、諦めたらだめだ」と言われ、完全に目が覚めました。

アメリカ旅行で今後の道を見出す

アメリカで見聞きしたことが、自信を取り戻していくきっかけに。人生の新しい目標も見つけ、それを実現するための一歩を踏み出した。

そして、高校時代の友人に誘われて初めて来たアメリカのシカゴで、車椅子の人たちが自分で普通に外出し、周りの人たちも当然のように助けている光景を見ました。今の自分には当たり前の光景ですが、当時の僕にとってはすべてが新鮮で、カルチャーショックでしたね。

その旅の帰りに空港で出会ったアメリカ人と2時間ぐらいバーで語り合う機会があったのですが、アメリカに来て見聞きしたことや、自分の目のことや悩みをつたない英語で伝えたところ、”You are just fine” と言われたことも、自信を取り戻していくきっかけになったと思います。

これから自分は何をやりたいのかと考えた時、やはり「航空関係に残りたい」「リスク・マネジメントを勉強したい」という2つに至りました。そして、自分を導いてくれた先生方のように、何かの形で後輩に自分の経験を伝えていきたいという思いから、「医療・教育に携わりたい」とも。それから、航空医療搬送、今で言うドクター・ヘリの学会などに積極的に参加したり、実際に運航病院に視察に行ったりしているうち、「そういった総合的な勉強をするには、アメリカのエンブリー・リドル航空大学に行くしかない」という結論にたどり着きました。

1年の短期留学から、名門エンブリー・リドル航空大学へ

1年留学で猛勉強。アメリカに来たからこそ、夢の実現への下地を作ることができた。

当時、英語はまったくできなかったので、1年間の留学プログラムでワシントン州のベルビュー・カレッジ(当時 ベルビュー・コミュニティ・カレッジ)に留学。出国前に父親から「納得するまで帰ってくるな」と言われていましたし、単なる “短期留学した人” になりたくなかったので必死に勉強しました。

そして、ラッキーなことに、自分の経験を書いていたブログが採用の決め手となって、ビジネスジェット運航サービス会社のクレイ・レイシー社の航空機販売課のインターンになることができました。どういった航空機が市場で売れているかというリサーチを徹底的にやったことで、航空の可能性を肌で感じることができましたし、企業のエグゼクティブが自家用車のように航空機を利用しているのを目の当たりにし、航空産業が本当に地元に根付いていると実感できたことも刺激的でした。

前田伸二さん

夢の実現につながった、恩師の言葉

「俺は身体的な問題でパイロットになれないんだ」と思っていた前田さんに、大学院の恩師が投げかけたある言葉。「そこからボールが転がり始めた」。

インターンシップで英語力が格段に上達したおかげで、アリゾナ州のエンブリー・リドル航空大学大学院の航空安全危機管理の修士課程に入学。でも、クラスメートの約8割はパイロット資格保持者。授業中でも飛行機事故の話をしながら、パイロットのテクニックの話をするのですが、パイロットでなかった僕は理解できず、嫉妬し、落ち込む毎日でした。

「俺は身体的な問題でパイロットになれないんだ」と言い聞かせて我慢していたある日、僕をかわいがってくれた教授が自家用機のセスナ機に一緒に乗せてくれました。30分ぐらいの飛行の後、教授は「情報を持っていない、知らないということは本当に不幸なことだ。もっと不幸なことは、自分が何をやりたいか知っているにも関わらず、それを押し殺すことだ」と言いました。僕が授業中に感じていたことを教授はすべて見抜いていたんですね。そして、「諦めるのは早い。まだ何も始まっていない。この人に電話してみなさい。彼は君と同じ身体的条件で飛んでいるよ」と。

その時点でアメリカに来てまだ2年でしたから、そこまで英語ができるようになっているわけがないですよね。だから最初は聞き間違ったのかと思いましたが、教授の紹介してくれたその人に電話してみると、その人は僕と同じく片目が見えないのにパイロットとして飛んでいたのです!いったん諦めた夢でしたが、「僕は何をしていたんだ」と思いましたね。

事故から18年後、ついに目標達成

事故から18年目の2016年、ついに念願の事業用操縦士免許(コマーシャル・パイロット・ライセンス)を取得。「コックピットで、涙があふれた」

そして、身体検査を受けてみて、自分もパイロットになれることがわかりました。父は僕の悔しさをずっと理解してくれていましたから、夏休みに日本に帰国して「もしかしたら飛べるかもしれない」と言ったら、「早くアメリカに戻って訓練を始めなさい」と言ってくれました。日本航空高等学校の寮に入るために15歳で家を出た時から、両親は「息子を空の上に連れて行ってあげたい」と思っていてくれたんです。

それから半年後に FAA(米国航空局)の能力認定(SODA:Statement of Demonstrated Ability)を取得し、FAA 認可の隻眼パイロットとなりました。「障害者だからできないとは絶対に言わせない」「やっと自分に戻ることができた、これから努力すれば何でもできる」という自信が戻ってきました。2005年には単発・双発計器飛行付自家用操縦士免許も取得。そして事故からちょうど18年後のこの6月、念願の事業用操縦士免許(コマーシャル・パイロット・ライセンス)を取得しました。

事故から18年という長い月日がかかったのは、エンブリー・リドル航空大学大学院を卒業後、アメリカの航空関係の企業に就職してかなり忙しくなり、操縦士になるための勉強と訓練になかなか時間を割けなかったからです。

前田伸二さん

それでも夢をあきらめることがなかったのは、家族と恩師、仲間のサポートがあってこそ。6月の事業用操縦士免許(コマーシャル・パイロット・ライセンス)の試験では、2時間の口頭試験と1時間半の実技試験を受けました。初対面の試験官でしたが、実技が終わって飛行機を着陸させた時、コックピットで「しんじ、おめでとう」と言われたとき、涙があふれました。

今後の使命は「世界を舞台に活躍できる可能性を伝えること」

可能性は世界中にあるということを伝える活動をするため、非営利団体を設立。航空機製造会社に勤務しながら、今後は後進の育成にも関わっていきたいと考えている。

こうしてコマーシャル・パイロットになり、アマチュアからプロの世界に入門させてもらったことはとても感慨深いのですが、飛行機作りをしている方が僕にあっているので、これからパイロットとして働くつもりはありません。

でも、この経験をたくさんの人に伝えたいという思いで、今回、Aero Zypangu を設立しました(設立当初は有限会社、その後に非営利団体となった)。本当にピュアな思いで空や飛行機が好きなら、日本で訓練を受けて何らかの理由で不合格になったとしても、可能性は世界中にあることを伝える活動をしていきます。「自分は日本でパイロットになれなかったから、もう絶対にパイロットになれない」と思い込んでいる人がいたら、「どうして日本でないといけないの?空はつながっていて、飛行機は世界中を飛んでいるのに」と伝えたい。

そして、自分が飛び続けることで日本版 SODA の実現や、日本で障害者が飛べるような環境作りに貢献したいです。また、来年からは、さまざまな形で航空産業や救急医療搬送及びレスキューなどの支援をしていきたいとも考えています。

アリゾナ州で両腕のない女の子がスポーツ・パイロットとして飛んでいます。日本では考えられませんよね。彼女は「私は別にプロフェッショナルのパイロットになりたいわけじゃない。”あの子、両腕がないじゃない” と見られて差別されてきたけど、私は空を飛べるようになったし、空手もやる。それをベースにいろんな人のモチベーションを上げる活動をしたい」と言っています。

前田伸二さん

導いてくれる大人の存在の大切さ

大人の本当の役割は、子供が夢を実現できるよう、きちんと導いてあげること。

以前、「前田がパイロットになれたんだから、じゃあ海外に行けばいいんだ」と、アメリカにやって来て、「50社にレジュメを送ったのにだめだった。どうしてくれるんだ」と言ってきた大学生がいました。レジュメというものがどういうものか、どういう中身があれば採用してもらえるのかまったく準備していなければ、誰も採用してくれませんし、相手にもしてもらえないのが現実です。

でも、それを指摘するだけでなく、大学生がそんな安易な考えに陥らないよう、きちんと導いてあげるのが、本来の大人の役割なのではないでしょうか。日本にいた時は、僕の周りにそんな大人はいませんでした。事故にあった18歳の時に、僕みたいな人がネットで正しい情報を発信していてくれたら、僕はここまで苦労しなかったはずです。

でも、エンブリー・リドル航空大学大学院の恩師が、「障害だけで飛ばないというのは理由にならない」と教えてくれ、自分の航空業界に対する 『志』 を開花させてくれたことに心から感謝しています。恩師とは今も連絡を取り合っていて、今回の免許取得も喜んでくれました。いつか必ず自分の操縦でアリゾナ州に戻って、あの小さな空港で有名なパイを先生と一緒に食べるのが夢なんです。

パイロットに限らず、日本ではできなくても、世界のどこかに自分が掲げる夢や目標を実現させてくれる環境がある。ルールは守らないといけないけど、自分の可能性に挑戦するというのはありなんです。ちゃんと準備して挑戦して、それでもだめだったら、そこで初めて諦めればいい。そういうことを多くの人に伝えて、人生の選択肢のひとつにしてもらえたらと思っています。

まえだ・しんじ/1979年生まれ。北海道十勝出身。日本航空高校航空工学科、日本大学理工学部航空宇宙工学科を卒業後、2002年7月に1年留学プログラムで渡米。プログラム終了後、アリゾナ州のエンブリー・リドル航空大学で航空安全危機管理を学ぶ。在学中の2004年にパイロットとしての訓練を始め、2005年に双発計器飛行付自家用操縦士免許、2016年に念願の事業用操縦士免許(コマーシャル・パイロット・ライセンス)を取得。現在は、航空機製造会社に勤務しながら、非営利団体 Aero Zypangu を設立し、代表として講演活動などを展開している。
【公式サイト】 Aero Zypangu Project

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