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「見えないリアリティを追求し、言葉とビジュアルの交差点をつきつめていきたい」画家・原慶子さん

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もくじ

戦争に影響を受けた幼少期

私の父は科学者になりたくて、八幡製鉄所に入社しました。母と見合い結婚し、夫婦で八幡製鉄所が今の北朝鮮に作った工場に送られ、私はそこで生まれたのです。敗戦直前、父は状況がすごくひどくなる前に、妊娠中の母を幼い私と妹と一緒に日本に送り帰してくれたので、私たちは助かりました。父の消息はしばらくわからず、生きているのがわかったのは、私が小学校1年生の時。それから父が日本に帰国するのに3年かかりました。父はあまり話しませんでしたが、同僚と共に民間兵としてとられ、シベリアを介して中国に8年にもわたり抑留されました。しかし、鉄道関係の仕事の貢献が認められ、日本の家族のもとに帰りたいという願いが聞き届けられたそうでした。

大学生の時、「人生なんてつまらない」というようなことを言った私に、父は、「いや、そんなことはない。人生ほど美しいものはないよ」と言ったのです。私はびっくりしました。「お父さんは戦争で自分の将来をめちゃくちゃにされたじゃないの。それでも人生は最も美しいものだなんて!」と言いましたよ。父は、「お前はまだ若いからわからないだろうけど」と言いました。帰国後、父は共産主義と言われてせっかくの就職先を誰かに奪われ、それからは自分でいろいろと仕事を作ってやっていましたが、病気になってしまったんです。私が自分で物を考えるようになったのは、ある意味で、その父と母の生涯、戦後の矛盾した社会というものを見ていたからからかもしれません。

でも、考えてみれば、幼い頃から考えがはっきりしていましたね。日本で学校の先生になった時も、女性の教師が男性の教師にお茶を出したり、お酒をついだりしないといけないのはおかしいと思いました。「私は男女が同じ給料をもらえる仕事に就いたんです」と一切を拒否したので、変わり者と思われていましたね。見合いをさせられそうになった時は、家出をしましたし(笑)。家の近くにいてまた見合いをさせられそうになって親に迷惑をかけてはいけないと、高校卒業後は東京を目指しました。

アート・セラピーとの出会いと、作家としての選択

高校に入学してからは、学校の美術科だけでは満足できず、夜間の大人の絵のサークルに通っていました。地元のとてもいい絵描きの先生で、その先生なら私の気持ちをわかってくれると思い、「私は絵描きになるつもりで、東京に行きたい」と相談してみました。すると先生は、「原さん、あなたね、画家としての可能性はまったくありません」と言ったんです。「まず、あなたは女性でしょう。美人であればいろいろ助けてくれる人も現れるだろうけど、あなたはそうじゃない。それに、あなたの家はそれほどお金持ちではないし、あなたを一生サポートすることはできない」と。

ひどいとはまったく思いませんでした。先生は現実を教えてくれていると思ったのです。でも、私が大分県立芸術文化短期大学に合格した時、入学金がなくて困っていると、その先生が支払ってくれました。「そんな小さな金額で、せっかくの学校に入れないのはもったいない。返してくれるのはいつでもいいから」と。卒業後に養護学校のアートの先生になった時、そのお金を返しに行きましたが、先生は、「絵の材料代にしなさい」と言って、受け取られませんでした。

大分県立芸術文化短期大学を卒業した後、鹿児島県の養護学校で5年間にわたり勤務し、アート・セラピーのことを知りました。重度の身体障害のある子供が絵を描けるようになったり、発達に問題があると思われていた子供がすばらしい絵を描いて知能が高いことがわかったり、アートが本当にすばらしい結果を引き出すことがわかりました。

そして、私はそのアート・セラピーを最初に始めた人がいるというアメリカに行って、もっとアート・セラピーについて知りたいと思うようになっていったのです。自分の将来のことを考えた時に、アーティストとしては自分の作品が行き詰まっていたので、ここで自分をもう一度最初から見直したてみたい、先生の仕事を続けるならアート・セラピーをちゃんと学びたいと思いました。当時の日本ではまだアート・セラピーのシステムが確立していなかったというのもその理由です。「アメリカは歴史がないから、前に進むエネルギーがある」と思っていましたから、アメリカにとても興味がありました。

1971年に渡米したのは、小学校の身体不自由な子供の先生のアシスタントという仕事をいただいたからです。そこに半年ぐらいいたのですが、就労ビザを取得できず、日本に帰ることになりました。その前に見るべきものは見ていこうと、ニューヨークの国連ビルのそばにあるアート・セラピーを行っている施設も訪ねました。医者もフィジカル・セラピストもアート・セラピストも一緒になって子供の障害を解決しようというシステムで進められていたので、これが理想的だと思いました。

そしてそのまま日本に帰るつもりで、ロサンゼルスに1週間ほどいた頃、大分県立芸術文化短期大学の先生で美術家の宇治山哲平(うじやま・てっぺい)先生が言ってくれたことを思い出したのです。宇治山先生は私のことをずっと応援してくれ、私の作品を最初に買ってくれた方なのですが、私が渡米する前に、「一つだけ、覚えていてほしいことがある。あなたのやっているアート・セラピーの仕事は本当に大切ですばらしいことだけど、アート・セラピーはあなた以外の人ができる仕事だ。でもあなたにはあなたにしかできない仕事があることを覚えていてほしい」と言われました。

最初は先生が何を言わんとされているのかわからなかったのですが、日本に帰国する段階になってようやくわかったのです。日本でアート・セラピーを始めようとすれば、まず資金運動をしないといけないし、人を説き伏せて施設を作らないといけない。そうすると、自分の絵を描けなくなる。アート・セラピーの仕事をするなら、絵を捨てないといけないことがわかったのです。そして、どうして自分が養護学校の先生に興味を持ったのか、どうしてアート・セラピーの仕事に興味を持ったのかを掘り下げて考えてみました。私は、絵と人間の心は密接な関係にあることに気づいて、養護学校の先生という仕事をやってみたい、子供たちのすばらしい能力を引き出していきたい、と思っていたんですね。

子供たちには本当にいろいろなものを見せてもらいました。でも、やはり自分はアート・セラピーでは一部の子供に貢献できるけれども、絵ではそういう人間性についてもっと広い意味で貢献できると思ったのです。子供だけでなく、いろいろな人たちに貢献できると。やはり私は絵描きにならないといけないと思いました。そこで結局、「今は日本に帰れない」と決心したのです。

ミシシッピ州立女子大学 美術学士号を1年とひと夏で取得

そこで、まず4年制大学に入学する資格を取って、大学に行こうと思いました。『トム・ソーヤの冒険』 を幼い頃に読んでいたので、ミシシッピ州やテネシー州に興味があり、ミシシッピ州の州立大学では唯一の女子大学を見つけて入学を申請しました。

すると、そこで2つの奨学金をいただくことができたのです。その頃は妹たちも仕事をしていましたし、母が小額ですがお金を送ってくれると言ってくれ、入学を決めました。その大学ではその年に初めて黒人の学生が入学したのですが、私はその大学の初めての外国人留学生でした。

歴史や英語などいろいろなクラスを取らないといけませんが、最初はクラスでも何を言ってるのかわかりませんでしたよ。まったく英語を勉強してこず、私には絵しかなかったのです。でも、気持ちよかったです。日本では原さんの言うことはすごく抽象的だと言われてきました。日本語はとても美しくて、深いでしょう。本も好きですし、読むことも好きで、幼いころは書くことも好きでした。でも、日本を出る頃には日本語がとても複雑になって苦しくなって、深くて重くなっていたのですが、アメリカに来て本当に単純に、少数の言葉しか話せないということに、気分が楽になりました。「アメリカに来るとまず言葉で苦労する」と言われますが、私の場合は少数の単語で自分を表現することに喜びを感じました。あの時の私の状況では、日本語から解放されたことは本当に良かったと思います。

それからは必死に勉強して、通常は4年かかる美術学士号(BFA)を、1年とひと夏でを取りました。私は絵が描きたくて、毎日スタジオで絵を描き、勉強は朝の4時から授業の時間まで、それだけしかしない生活を送っていました。ペーパーがどうしても書けず困っていたら、留学生の世話をしていた先生が私のペーパーを徹夜で手伝ってくれました。あの先生のことは忘れられないですね。そういう人たちのおかげで無事に卒業できたのです。絵描きになることは家からも反対されていましたが、宇治山先生をはじめ、日本でもアメリカでも、困っている時は誰かが助けてくれました。

ウィスコンシン州とミシガン州での日々

そのままそのミシシッピ州立女子大学の大学院に進学することを勧められたのですが、「ここもいいけれど、北のほうに行ってみよう」と考え始めました。「北の方は自由すぎるわよ」なんて言われましたが、「だから行くのよ」と答えましたね。

そして、ウィスコンシン州ミルウォーキーのウィスコンシン大学で1年にわたり勉強しました。それまではしたこともなかったエッチングや版画をやり、ハリウッドから教えに来ていた人のもとで初めて映像の作品も制作しました。そしてもう一つチャレンジするべく、ニューヨークに行きたいと思ったのですが、ニューヨークの知人に、「生活費が高いし、全額奨学金をもらってもやっていけない。美術ならミシガン州ブルームフィールド・ヒルズのクランブルック・アカデミー・オブ・アートがいいよ」と言われたのです。

それまで私はその学校について聞いたこともなかったのですが、ためしに行ってみたところ、すばらしいところでした。森の中に大学院だけがあって、1年間に数人しか学生をとらず、芸術家の集まりといった感じ。24時間、そこでずっと作品を作るのです。これは理想的なところだと思い、そこでシルク・スクリーンのスタジオ・アシスタントの仕事も得て、転校しました。作品の制作だけにのめりこめる、本当にすばらしいところでした。最初はきつかったけれど、回り始めたらすごかった。寝ることも忘れて作品を作っていました。

そこにもうしばらくいる予定でしたが、母が急死してしまい、続けることができなくなってしまいました。でも学校にかけあい、作品制作と卒業論文に十分な単位を取得していることを確認し、MFA(美術学修士号)を取得しました。

大学院卒業後、制作活動を開始

大学院卒業後、ウィスコンシン州ミルウォーキーのウィスコンシン大学の優れた絵描きでもあるコルト教授の世話で、ミルウォーキーの近代画廊のアシスタントとして就職して、倉庫のようなところでスタジオを借り、制作活動を始めました。そしてブラドリー・ギャラリーで最初の個展を開催したのです。シカゴにのペリメター・ギャラリーのオーナーでコレクターの女性が、その個展で展示していた作品の半分を買い入れてくれ、それ以後は私のコレクターとして、いろいろな意味でサポートしてくれています。すばらしいめぐりあいです。

私は最初は版画でわりと名前が出ていたので、「版画じゃないとだめだ」という画廊もありましたが、彼女は「あなたが油絵を描きたいのだったら、やりたい仕事はやらないといけないでしょう。私はそれをサポートします」と言ってくださいました。とてもラッキーだと思います。

そのように、先生としてではなく、画家としてやっていこうと思っていましたが、ギャラリーのアシスタントでは就労ビザを取得できないことがわかり、就労ビザを取得できるということで1980年にウィスコンシン大学の教職に就きました。しかし、就労ビザは更新が必要ですから、ゆくゆくは永住権を取得する必要がありました。それで、日本とアメリカで開催した個展の記録などをまとめて永住権を申請し、ようやく芸術家としての永住権を取得できました。これもとてもラッキーでした。

ワシントン州東部のワラワラ市へ

でも、1985年の経済危機でその教職がなくなり、ここワシントン州ワラワラのウィットマン・カレッジでの教職の話が来たのです。当初は「ワシントン」と言われて勝手に「ワシントンDC」と思い込んでいましたが、面接の段階になって「ワシントン州」であることが判明。オレゴン州の学校の学長だったコレクターのご主人が、「ウィットマン・カレッジはとてもいい」と言ってくれたので、面接に来てみました。いったいどういうところかと思って来てみて、大きな空を気に入りました。その頃はシングルマザーで娘を育てていましたので、娘にもいいだろうと。

そしてウィットマン・カレッジの教授として芸術学部で教え、学部長も務め、3年前に退職しました。在職中に申請・デザインした芸術学部の校舎も建ちましたし、もうやることはやった、という気持ちになったのです。よく、私の作品数を見て、「フルタイムで教鞭をとっているのに、どうしてこんな量産できるのか」と言われました。私は中途半端が嫌なのです。先生の仕事も一生懸命にやり、時間もかけました。睡眠時間が数時間程度で無理もしましたが、ずっとおもしろい経験をさせてもらいました。

考えてみると、ワラワラは、どこに行くにも車で5分。ニューヨークのマンハッタンにもスタジオを持っていたこともありますが、マンハッタンの中で移動するにも1時間かかりますでしょう。ですから私はワラワラのようにシンプルなところで、より作品の制作に集中できるのです。それにスタジオにこもってしまえば、ニューヨークもワラワラも同じですしね。

個展やパブリック・アートで作品を発表

退職した今、私は作品の制作だけに集中しています。マーケティングのようなことをしないんですね。これまで私の作品を扱ってくれたギャラリーはすべて、オーナーやコレクターが私の作品を見に来てくれたり、ギャラリーに紹介してくれたことがきっかけとなっています。私から売り込みに行ったわけではないのです。学生には、「マーケティングしないといけない」と教えてましたし(笑)、ポートフォリオの作り方も教えたりしましたが、自分は時間がない。シアトルやポートランドでも自分の作品を紹介したいと思っていましたが、作品の制作と大学での仕事では時間がなかったのです。

でも、シアトルとポートランドにはパブリック・アートをいろいろと出しています。ハーバービュー・メディカル・センターの2階や、シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジの図書館の横にもあります。パブリック・アートは、美術館やギャラリーとは違って、見る人が自由なんです。例えばコミュニティ・カレッジの場合はいろいろな国の学生が通っていますので、その人たちとなじめるものを考えました。建築家が作った空間に作品を持っていけるということはおもしろいですよね。新しい挑戦でもあります。

今もポートランド市アーカイブのビルに設置されるパブリック・アートを制作中です。数年前にガラスでも作品を制作し、特許も取り、もっとガラスをやってみたいと思っていたので、この作品にはガラスにエナメル・ペイントという手法を考えました。今月中に完成させる予定です。

今後の活動

私が2006年に行なった個展 『Imbuing in Monet』 で発表した作品 『Topophilia – Imbuing in Monet』 は、遠くから見るとモネの作品 『睡蓮』 のようですが、近くで見るといろいろな国や文化を象徴するファブリックの切れ端を貼り、いろいろな国の言語を入れてあります。横幅42フィートで、ニューヨークのモダン・アート美術館にあるモネと同じサイズなんですよ。若い頃は成功していたモネは、晩年は時代の流れもあって注目を受けず、目も悪くなり、記憶で絵を描いていました。ですから、『睡蓮』 は反射ではなく、水面と空の両方を描くという、どちらかと言うとすごく新しい空間を作りあげていたと思うのです。もう少し生きていたら、モネはまたすごい作品を描いていたのではないでしょうか。

そのモネの仕事が終わって、今度は急に雪舟に興味が出てきました。15世紀の禅僧で画家の雪舟は山口出身で、ずっとそこで制作に励んだ人です。格式のある画家の門下生ではなかった雪舟は、15世紀にしてすばらしく新しい感覚を持つ、ビジョナリーでした。作品に描かれた風景はとてもリアルだけれども、実際にはそのような場所はなかった。私は “Topophilia”(場所愛)というテーマを30年以上やっていますが、その雪舟の感覚が私にぴったりなんですね。この世には実際には見えないものでも、リアルなものがたくさんあると思うんです。私はそういう見えないリアリティを追求しているので、雪舟はおもしろい。そして、今やっている作品を、その路線での最後の大作にしたいと考えています。

そして、もう一つ興味があるのは、言葉です。書いて言うことと、絵で表現することは同じだと私は考えています。そういう言葉とビジュアルの交差点をつきつめていきたい。母が亡くなり、この世が本当にまったく違った世界になりました。そして私は、『Topophilia』 のシリーズを始めたのです。そして、自分のパーソナルな世界がもっともっと広がって、本当に作家としていろいろな人種、いろいろな世界、つまりグローバルなものを、自分が感じて表現できるということを実感しました。自分の中にそういうものが生まれてきている、と。これからもそれを描き続けていきたいと思います。

【関連サイト】
Whitman College
University of Wisconsin-River Falls
Cranbrook Academy of Art
University of Wisconsin-Milwaukee
Mississippi State University for Women
大分県立芸術文化短期大学

原 慶子(はら けいこ)
1942年生まれ。東京の現代美術学校と大分県立芸術文化短期大学で学んだ後、養護学校でアートを教えながら作品を発表し始める。1971年にアート・セラピーを学ぶために渡米。ミシシッピ州コロンブスにあるミシシッピ州立女子大学で BFA(美術学士号)、ウィスコンシン州ミルウォーキーのウィスコンシン大学で MA(修士号)、ミシガン州ブルームフィールド・ヒルズのクランブルック・アカデミー・オブ・アートで MFA(美術学修士号)を取得。1980年から5年間にわたりウィスコンシン大学リバー・フォールズ校で1980年から5年間教鞭を取り、1985年にワシントン州ワラワラ市に引越し、ウィットマン・カレッジで2006年までの21年間にわたり教鞭を取る。同時に、米国とヨーロッパ各地で個展を開催し、数々の賞やグラントを受賞。シカゴ美術館などに作品が所蔵されている。
【公式サイト】 原慶子 公式サイト

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