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第53回 Freude! 『第九』 日記

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著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

肖像画の力士たちが見下ろす中、コンサート開幕を待つ人たち。

肖像画の力士たちが見下ろす中、コンサート開幕を待つ人たち。

相撲力士の肖像画に彩られる高い高い天井。ここは、両国国技館。その2階席で、私は歓喜の声をあげる。百万の人々よ、わが抱擁を受けよ! この接吻を全世界に!ヴィーデル (wieder)。ツァオベル(Zauber)。カタカナ発音のドイツ語にも臆することなく、満面の笑みをたたえ、体を揺すりながら。

X 月 X 日

シアトル。その言葉を耳にする時、脳裏を過ぎる街角の風景。魚が空中を舞うパイク・プレース・マーケットの店。桃色の花びらたちが主役となる春のワシントン大学のキャンパス。そして、ユニバーシティ・ストリート。土曜日の朝、ネクタイが窮屈そうな息子や、ロングドレスが自慢気な娘と手を繋ぎ闊歩した通り。目指すは、ベナロヤ・ホール。シアトル・シンフォニーの子供向けコンサートのシーズンチケットを購入し、定期的に通っていた。5歳児だった息子にタキシードもどきの一張羅を着せ、ウィーン少年合唱団のコンサートへと繰り出した夜の華やぎも懐かしい。やがて成長した息子と娘が揃って青少年オーケストラに入団、彼ら自身がベナロヤ・ホールの舞台に立ちバイオリンを奏でたのも、忘れられない思い出だ。音楽は、いつだって、私の横にあった。だが、気取ったクラッシック・コンサートだけではない。サンドイッチやフルーツを詰め込んだバスケットを片手に出向いた湖畔の公園で、バンドが奏でるロックやフォークソングを背景にピクニックを楽しむ。そんな夕暮れ時が、いくつもあった。思い浮かべるだけで、シアトルの夏を彩る緑や木漏れ日が目前に拡がり、涼風が心を吹き抜けるかのようだ。

「ロックが教科書」。「バッハが恋人」。どちらも、私が書いた記事のタイトルである。前者は、高校生の時、朝日新聞に投稿。後者は二児の母となった矢先、当時連載中のコラムに寄稿した。それらのタイトルが示すとおり、音楽は私の人生に深遠な影響をもたらした。「英語で司法試験に合格するだけの英語力を、どうやって身につけたの?」そんな風に聞かれることがある。なんのことはない。ロックが好きだったから、辞書と首っ引きで歌詞カードを訳しつつ、曲を口ずさんでいただけだ。ロック専門誌の編集者になるのだと決めて疑わなかった十代の日々が蘇る。今もロック好きは変わらないが、同じぐらい、いや、それ以上にクラシックにも目がない。紅茶を飲む店で、思いがけずバッハの曲が流れたりすると、それこそ少女のように頬を紅潮させ、うっとりとその世界に心を浸す。まさに、バッハは私の心の「恋人」なのかもしれない。

ああ、ユニバーシティ・ストリート。今も、土曜日の朝の光を浴びて、お洒落をした小さな紳士や淑女たちが、ママやパパと一緒にベナロヤ・ホールへと吸い込まれていくのだろうか。

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