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第56回 ことばを超えるもの:ある「バイリンガル」のストーリー

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息子と娘が、それぞれ日本語補習学校と日本語幼稚園に通っていた頃。

息子と娘が、それぞれ日本語補習学校と日本語幼稚園に通っていた頃。

「いーち、にーい、さーん・・・」

水無月の透明の光の中、高らかに声が響く。子も親も先生も、懸命に声を張り上げる。紅白玉入れが幕を閉じた後、かごに投げ入れられた玉の数を競い合う。「じゅうご、じゅうろく、じゅうしーち・・・」ここは・・・東京? いや、そうではない。シアトルの話である。息子が毎土曜日に通学していたシアトル日本語補習学校(以下、「補習校」と略)が、現地のハイスクールの校庭を借り、日本式の運動会を開催したのだ。

6月という少々変わった時期に行われた当行事に寄せる日本人コミュニティの思い入れは強かった。週一回のみの補習校だけに、通常の日本の学校に比べれば、運動会の内容やスケールは当然ながら限定される。現在、娘が通う東京都心の小学校では、振りつけや BGM に創意工夫を凝らしたダンスあり組体操あり、と長期間におよぶ練習の成果が反映された出し物が目白押しだ。それにひきかえ、補習校は文字通り「補習」としての役割を果たす以上、練習に割ける時間もおのずから限られ、とても組体操とまではいかない。そんな現実が立ちはだかる中、玉入れに徒競走にと背一杯取り組むアメリカ育ちの子どもたちの健気な姿を目の当たりに、心打たれる観客も多かったのではないか。

「にじゅういち、にじゅうに、にじゅうさーん・・・」

英語を母国語とする生徒が多い中、誰もが日本語で一生懸命に玉の数を数える。不思議なものだ。元旦を迎えた千代田区の空の下、初夏のシアトルの校庭に響いた掛け声が鮮明によみがえり、胸が熱くなる。

バイリンガル教育への熱意

補習校に日本語幼稚園・保育園、その他、多彩な日本語教育機関がシアトル界隈で年々増えつつある。アメリカで成長する我が子に、もうひとつの祖国・日本の言語や文化との接点を創ってやりたい。そんな親心には深いものがある。シアトルから東京へと居を移し、海を超えての大引越しという大胆な選択をした私も、その一人である。シアトル在住時、息子は、補習校で、こいのぼりを作り、日本語で「にっき」(日記)を書き、甚平を着て校内の夏祭りへと繰り出した。娘は、日本語幼稚園で、ひなまつりを祝い、流しそうめんに舌鼓を打ち(「ママ、7杯も食べたよ!」)、絵本 『ぐりとぐら』 の読み聞かせに耳を傾けてきた。

現在は、共に日本の公立校に通い、すっかり日本の子らしくなった。詰襟の制服に身を包み竹刀を抱えて通学する息子(これでも剣道部部長である)は、国語の授業で、太宰治の 『走れメロス』 を読むまでになった。(実際のところ、どれだけ理解しているのかは不明だが。)一方、娘は愛読する朝日小学生新聞のリポーターを嬉々として務め、「リポーター通信」を掲載したり、ジャズピアニストの取材に出かけたりと、活字の世界で彼女なりに活躍している。私は、「子供達に日本での暮らしを体験させたい」という親心(いや、それは悲願に近かったかもしれない)に背を押されるかのように、苦労の末、東京で就職した。だが、もしその機会に恵まれなかったとしたら、今もシアトルで子供達の日本語を伸ばそうと試行錯誤を続けていただろう。

今回のコラムでは、子どもに日本の言語や文化を継承するべくシアトルで奮闘するお母さん、お父さんへの声援も込めて、一人の友人のストーリーを共有したい。

ある国際弁護士との出会い

その弁護士、小林英二さんとは、六本木で開催された外国人弁護士会のパーティで出会った。「いかにも帰国子女といった風情だなあ。」多国籍の弁護士の輪の中で、いとも自然に英語で談笑していた彼の姿に、そんな第一印象を持った。彼と私との会話も英語だった。ところが数日後、職場の PC に届いた彼のメールを開けた時、私は目を見張った。私ごときに「先生」と呼びかけるそのメールは、いかにも日本男児を彷彿とさせる折り目正しい日本語で書かれていたからだ。明らかにアメリカ暮らしが長い人なのに、これ程の日本語が駆使できるとは。「一体どんな人なのだろう?」好奇心が頭をもたげた。

後日、小林氏と丸の内で食事をしながら聞かせてもらった話は、心の琴線に響くものだった。氏がいかにしてバイリンガルに育ったか。当初はその一点への関心が先行していたが、彼が語ってくれたストーリーには思いがけない深みがあることに気づいた。「バイリンガル成功物語」よろしく、小手先だけの体験談で片付けてしまうには、あまりにも惜しい。言葉を越えるもの。そこに焦点を当てながら、彼が辿った道を紹介しよう。

小林氏の生い立ち

小林英二氏は、屈指の国際法律事務所の東京オフィスにおけるパートナー弁護士である。テキサス州育ちの彼は、弁護士資格も同州で取得した。業務はM&Aを含め日米のクロスボーダー案件が中心となり、バイリンガルとしてのスキルが十分に活かされている。まずは、小林氏が日本で働くようになった経緯から語ってもらおう。

日米双方の文化を背景に育った小林英二弁護士

日米双方の文化を背景に育った
小林英二弁護士

「私はアメリカの弁護士として、M&A の分野を専門にしようと、ヒューストンで石油・エネルギー企業の M&A の仕事を始めました。弁護士2年目の年に、Exxon と Mobile との合併案件で、私の事務所が Exxon を代理することになりました。周囲に日本語を話せるアソシエートが少ないことから、私が Due Diligence などで日本に出張する機会がありました。その際、事務所からも、また依頼者であった Exxon からも注目を浴びるようになったのです。日本語を活用する仕事を考慮し始めた矢先、事務所が再開設した東京オフィスに、ヒューストンオフィスから移籍することになりました。」

商社マンの家庭に育った小林氏は、父親の駐在により、フィリピンで誕生。マニラに7年住んでから日本に帰国。その3年後、10歳よりアメリカへと移住し、小学校から大学、ひいてはロースクールまでテキサス州に滞在した。テキサスでの彼は、現地校に通うかたわら、補習校も小学校から続け、高校卒業までこぎつけた。同時に高校を卒業したのは、彼を含め、たったの4人に過ぎなかったという。

高校卒業まで補習校を続けるのが快挙とも呼べることを、かつてシアトルの日本人コミュニティにいた私は実感している。当時、シアトルの補習校では、小学校高学年あたりから、現地校での勉強や課外活動に割く時間が増えるにつれ、一人また一人と脱落していく傾向があった。今もおそらくは変わらないだろう。

さらに驚くことに、小林氏は本格的にテニスに打ち込んでおり、大学進学時にはテニスで奨学金を授与する資格まで与えられた程の腕前だった。当然ながら、その練習や試合に費やす時間も長かった。同時にバイオリンも習っており、コンクールにまで出たという多才振りに舌を巻く。過酷なスケジュールにも関わらず、彼いわく「友達もいたし、補習校が楽しかったので、続けたいと思っていました」。ただ、テニスの試合などのスケジュールが厳しく両立に障害が生じ、それを調整する上で両親の苦労もあったらしい。その反面、テニスやバイオリンへの挑戦から得た教訓も、補習校を続ける上での精神的な支えとなった。日々、着実に努力を重ね練習を積むことが実を結ぶ事実を認識したからだ。

「たとえば、バイオリンでは、熱心に練習をした時はよく弾けたのにひきかえ、あまり練習をしなかったコンクールでは当然の結果が出ていました。テニスも同じで、がんばってトレーニングをすることで体力がついたり、練習をすることにより自分が憧れていたジュニア選手に勝つことができたりしました。」

日本語幼稚園で行われた運動会

日本語幼稚園で行われた運動会

親が子へと託す想い

両親は、小林氏を補習校に通わせるだけではなく、夏休みに日本に一時帰国させることにより、日本文化を肌で学ぶ機会を与えた。一時帰国中、氏はどのように過ごしていたのだろうか。「親戚の家に泊まったり、自分でアルバイトを探し同年代の普通の学生のように時間を過ごしました。たまには翻訳の仕事があったりして、そのお手伝いをしましたが、基本的には、同年代の子たちと一緒になるような行動をとっており、その際に日本人としての感覚や考え方を学んだと思います。」

小林氏が日本語の勉強を続けることができた背景には、我が子を海外で育てる両親の想いがあった。「アメリカでの生活が長くなり始めてから、父は 『半分がアメリカ人、半分が日本人にならないように。両方とも100パーセントになるように』 と言っていました。当時の自分には深く理解できなかったのですが、今はその意味をわかっていると思います。」両方が100パーセント。なるほど、と膝を打ちたい気にさせられた。私は、たまたまハーフと呼ばれる子の母親である。「半分がアメリカ人、半分が日本人」であれば、それはそれで立派な個性じゃないか、と思いがちでもある。だが、「両方が100パーセント」という概念は、私には欠けていたのではないか。

日本語の学びを維持していく中で重要なのは、「家庭での教育」だ。小林氏は、そう強調する。

「ただ補習校や家庭教師だけでなく、それ以上に食卓での会話などの日々の接し方をきちんとすることで、大きな影響を与えるのではないかと思います。」

彼の両親は補習校に家庭教師、夏の一時帰国と豊富な機会を設けては子供の日本語教育に力を注いだが、氏によると最も功を奏したのは、家庭内での言語は全て日本語に徹したことらしい。

「家庭で英語を交えた日本語を話し始めたりしたら、日本語を維持するのがより大変だったと思います。私の両親は、父親の仕事の都合で海外生活が長くなってしまった子供たちに対し、『きちんと育てなければ』という責任感を持っていたようです。」

小林氏には姉と兄がおり、共に大学卒業まではアメリカ在住。2人ともバイリンガルのスキルを活かしキャリアを築いた。姉は、アメリカ広告代理店の日本支社勤務、そして兄はアメリカ自動車メーカーでアルゼンチン、オーストラリア、中国などに駐在の経験を持つ。

父への「リスペクト」

小林氏の話を聞いて私が最も心を打たれたのは、彼が家族、特に父親について語る時、その端々に「リスペクト」という言葉が登場することだ。氏が日英両語を巧みに操り国際舞台で活躍する背景には、父の影響が大きかった。

「私が父をリスペクトしているのは、とにかく地道にコツコツ勉強や仕事をする姿勢です。あまり近道を探したりするような性格ではなく、その姿勢がいろいろな場面で伝わってきます。父は大手企業に入社した際、同期で英語の成績がトップだったようですし、仕事でも周囲から信頼を受けていた印象が非常に強いです。」

日本語の「尊敬」とも微妙に異なる「リスペクト」。彼がその言葉を使うたびに、「いいな、きれいな言葉だな」と思った。通常、私はカタカナ化した日本語を好まない。例えば、誰かが「エンカレッジする」だの「ファシリテートしといてよ」などと言おうものなら、「なによ、それ」とつい心の奥で横槍を入れたくなるのだ。それなのに、なぜだろう。リスペクトに対しては少し異なる思いが生じた。

最後に、心に鮮明に残ったエピソードを紹介したい。

「父は栃木出身で、英語や海外とは無縁の家庭に育ちました。父が大学生の頃、夏に日光に遊びに行った際、湖畔にある大きいお屋敷の中から英語が聞こえてきました。そこで、父は玄関のベルを鳴らし、『英語を習いたいと思っています。雑用をしますから、ここで英語を教えてください』 と頼んだのです。ところが、『今年の夏は既に誰かにお願しています。来年の夏でもよかったら、その前に手紙を書いてください』 と家政婦が言ったそうです。

翌年の春頃に、父が和英辞書を引き書いた手紙を送ると、その家から返事が来て、ぜひ夏に来てくれ、とのことだったのです!その家は当時の Standard Vacuum Oil(現 Mobil 石油)の日本支社の代表の別荘でした。夏の間、父はその家族の子供達2人の面倒を見ながら英語の勉強をさせてもらったようです。以来、父は、その方がお亡くなりになるまで、おつきあいを続けたそうです。」

素晴らしいお父さんだ。そして、その父親のことを、丸の内の料理店のカウンターで、さりげなく淡々と語る息子の姿もまた素敵だ。話を聞き進めるうちに、一枚の家族写真が心に映し出されるような温かい気持ちが込み上げた。

翌朝、氏にメールで送ったお礼のメッセージに、私の気持ちを込めた。その一部を、ここで引用したい。

小林先生
おはようございます。昨日は、朝方まで仕事が残っている中、おつきあい頂き、その上、いろいろとお話を聞かせて頂きまして、心から感謝致しております。(中略)聞かせて頂いたお話、特に小林先生が辿ってこられた道や、ご家族との関係など、心に深い余韻を残しました。明確な目的意識とともに子育てをされたご両親のもとで、温かい家庭の中、前向きに成長されたのだろうなあと、つい想像せずにいられませんでした。

「リスペクト」という言葉が自然に口をつくのは、素敵ですね。実は、私は、一昨夜、14歳の息子のしでかした出来事で立腹し、大喧嘩をした矢先です。「家族との関係って、職場の人間関係より複雑だなあ。もう、親なんて、やめたい」とまで、心の中で悪態をつきつつ出社した次第です。でも、不思議ですね。昨夜の先生のお話を伺ううちに、改めて考えさせられました。私は、親として、人間として、リスペクトに値するのだろうかと。自問自答の結果、残念ながら(というか、明らかに)、答えはノーでした。緩みきっていた背筋を、今一度ピンと正して、先ずは自分の生き方にフォーカスを当てる時なのかもしれません。(後略)

シアトルで学んだ日本語を活かした、ひと夏の体験入学。都内の小学校に登校する息子と娘。

シアトルで学んだ日本語を活かした、ひと夏の体験入学。都内の小学校に登校する息子と娘。

新たな年を迎え、心なしか華やいで映る赤坂や九段の街並み。この地で思春期を迎えた息子と娘は、早くも巣立ちの日が背の向こうに見え隠れするようなスピードで心身ともに成長を遂げている。

「お正月なんて、どうだっていいよ。それどころじゃないから。」

日枝神社へと歩を早める初詣客とすれ違いつつ、重い鞄を背負い歩く息子。近所のカフェでミルクティーのカップを片手に、塾の冬期講習の宿題に取り組むのだ。少年から青年へと成長を遂げつつある彼の大人びた横顔を、私は複雑な気持ちで見つめる。

そんな兄の姿に刺激を受けたのだろう、娘もまた塾通いを切望するまでになった。

冬休みはいつも家族旅行と決まっていたが、今年は都内にとどまることにした。自らの道を歩き始めた子供たちを見るにつけ、寂しくも、頼もしくもある。彼らが羽ばたく前に、少しは「リスペクト」に値する人間に、私自身も成長できるだろうか。混沌とした東京のガラスの街で寒空を仰ぎ見つつ、私は自分に問いかけずにいられない。

掲載:2016年1月

著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先はinfo@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で “on behalf of oneself” という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。



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