札珠恵さん (インテリア・デザイナー/アイスホッケー・プレーヤー)

パイオニア・スクエアにオフィスを構える建築会社 Mahlum Architects のインテリア・デザイナー。デザインと格闘する一方、女子アイスホッケー日本代表に5回も選出され、現在はシアトルのチーム、シアトル・グリッドロックで全米大会にまで出場した凄腕のゴールキーパーでもあります。今月は、その札さんにお話を伺いました。
※この記事は2000年8月に掲載されたものです。

札珠恵(さつ たまえ)

1966年 北海道生まれ
1982年 苫小牧ぺリグリン入団
1985年 札幌の専門学校で建築を勉強
1987年 世界女子選手権に全日本の正 GK として参加、カナダに遠征、竹中工務店北海道支店入社
1988年 苫小牧ぺリグリンが第2回全道女子で優勝
1989年 苫小牧ぺリグリンが第3回全道女子で2年連続優勝、第8回全日本女子選手権準優勝、カナダで国際親善大会出場
1990年 苫小牧ぺリグリンが第4回全道女子で3年連続優勝、第9回全日本女子選手権準優勝、第1回世界女子アイスホッケー選手権に全日本の正 GK として出場、オールスター選出
1991年 苫小牧ぺリグリンが第5回全道女子で4年連続優勝、第10回全日本女子選手権優勝、(苫小牧ぺリグリンから岩倉ぺリグリン改称)
1992年 岩倉ぺリグリンが第11回全日本女子選手権優勝、ベスト GK 選出、世界女子アイスホッケー世界選手権アジア代表選考会出場(中国に敗退)
1993年 岩倉ぺリグリンが第12回全日本女子選手権準優勝
1994年 世界女子アイスホッケー世界選手権アジア代表選考会出場(中国に敗退)
1995年 パシフィック・リム・トーナメント(サンノゼ)にチーム・ジャパンとして出場
1996年 岩倉ぺリグリンから札幌のスポーツシステムファイターズに移籍、チーム初の全日本女子選手権準優勝
1997年 長野リンピック Team Japan 選手候補に選出
1998年12月 スポーツシステムファイターズ退団、シアトル移住、シアトルのチーム『Ever green Women’s Hockey Association』入団、C.N.A. Architecture 入社
1999年 Arai Jackson Architects & Planners 入社
2000年4月 US National 出場(第5位、ゴーリーセーブ率は第2位)
2000年5月 Mahlum Architects で勤務開始、現在に至る

アイスホッケーとの出会い

アイスホッケーとインテリア・デザイン、どちらを先に始められたのですか?

アイスホッケーです。私が育った北海道の苫小牧の土地柄で、小さい頃からスケー トが友達。子供から大人までスケートを楽しんでいます。でも、私が生まれた頃はアイスホッケーと言えば男性のスポーツ。私が高校に入学した年に女子ホッケー同好会、苫小牧ぺリグリン(以下、ペリグリン)が結成され、高校1年生の時に入団を希望しましたが、最初は断られました。というのも、その時同好会は社会人だけで構成されていたからです。結局、何度も通いづめて、ついに入団の許可がおりたのですが、その頃になってもまだまだ「女子がアイスホッケーなんて」 と、世間からの風当たりは非常に強かったですね。

札さんのゴーリー人生が始まったわけですね。

いつだったか記憶にありませんが、アイスホッケーを見て、ゴーリーに一目惚れ。アイスホッケーをやるならゴーリーしかないと思ったのです。

それから札幌に移られたそうですが、ホッケーの練習に苫小牧まで通われたのですか ?

そうです。でも、ペリグリン創設者の金子先生とチームの仲間にとても大切にしていただいたことで、続けることができました。高校卒業後、札幌の専門学校で中学生の時から興味のあった建築を勉強しました。また、両親の離婚後、母が美容師をして生計をたててくれたことからも、何が起こっても大丈夫なように手に職をつけようと思っていました。勉強も大変でしたが、同じ仲間とホッケーを続けるために、10年間にわたって週3-4回の練習にバスで苫小牧へ通いつづけました。冬には雪が降って片道2時間もかかることもありましたが、ただ本当にアイスホッケーが大好きで、練習できることが嬉しかったのです。

インテリア・デザイナーとして

そしてインテリアデザイナーとしての人生も始まって・・・。

専門学校卒業と同時に札幌の竹中工務店に入社し、設計部に所属しました。もちろんホッケーも続行。職場ではホッケーのことも理解していただき、仕事の後はすぐに練習に行き、練習を終えて夜10時頃に会社へ戻り、また仕事をしたりもしました。でも、女性がほとんどいない建築業界で働くのはなにかと難しかったです。

札さんは日本でさまざまなプロジェクトを手がけられたそうですが、インテリア・デザイナーとしてのお仕事は天職ですか。

本当に好きな仕事をやっているという感じですね。私が本格的にデザイナーとして成長し始めたのは、竹中工務店の設計部長だった上司(現在同社プリンシパル・アーキテクト)と一緒に仕事をするようになってからだと思います。きっかけは、あるプロジェクトで、他の直属の上司の好みのデザインを作り、他に自分の思った通りのまったく違うデザインを作ったこと。自分のデザインに自信があったのですが、自分の意見を主張できるような状況ではありませんでしたので、わざと私のデザインの方を上にして置いていたのです。すると、そばを通りかかった設計部長が、「これいいじゃないの」と。それをきっかけに私は彼とチームを組んで仕事をするようになり、それからは本当に楽してしょうがなく、世界が変わってしまいました。

その後、その方とさまざまなプロジェクトを手がけられて。

そうです。最高のチームで、素晴らしい仕事ができたと思っています。これまで手がけたものには、ベル・クラシック帯広、六花亭釧路、札幌デジタル専門学校、オーセントホテル小樽などがあります。日本のデザインはアメリカとはかなり違い、ディティールにもっと心配りをする繊細な世界。その基礎から叩き込まれました。いろいろなデザインの見方、プロポーションの大切さ、日本の古い建築の中にもすばらしいインテリア・デザインがたくさんあることなども教えていただきました。今でもそれが私の中に生きています。

それほどのチームとのお仕事を辞めてこちらに来られるのは大変だったのでは。

そうですね。シアトルに移住しても同じような仕事をやって行けるのかまったくわからない状態で、これからというチャンスをやっと掴みかけた時にシアトルへ来ることになってしまいました。

仕事とホッケーの両立

仕事とアイスホッケーの両立というのは本当に大変ですね。日本でアイスホッケーをされている女性の方は、みなさんそのようにされているのですか?

学生から社会人、主婦と、メンバーはさまざまですが、チームによっては選手を社員として採用し、遠征などは公休扱いなどにしてくれるところもあります。わたしにもそういうお話はあったのですが、あえていきませんでした。第一線でプレーできなくなった時に、好きな仕事でプロフェッショナルとして働ける道を選んだのです。

1996年、岩倉ぺリグリンから札幌のスポーツシステムファイターズに移籍され、全国大会まで出場されたそうですね。

竹中で大きなプロジェクトを手がけるようになり、仕事とホッケーの板ばさみになっていたのが第1の理由です。平日の夜、仕事が終わってから片道2時間のところを練習に通い、休日の土日も午前7時から練習。フラフラの状態でした。そして、監督の方針により、公式試合に出場できる機会が減り、そのまま岩倉でプレーをすることに負担を感じていたことが第2の理由。そこでとうとう職場のある札幌のチーム、スポ ーツシステムファイターズに移籍を決意しました。13年間も一緒にプレーしたチームを去るのは想像以上につらいものでしたが、それまで敵として戦ってきた私を快 く迎えてくれたスポーツシステムファイターズでプレーし続け、全日本女子選手権で準優勝という成績を収めました。

シアトルへ移住

シアトルに来られるきっかけとなったのは、なんでしょうか?

1997年にシアトル出身の夫がセラピストになるための修士号を取るべくシアトルの大学院に入学したのがきっかけです。私はその頃手がけていたオーセント・ ホテルのプロジェクトを終えるまでシアトルに渡ることはできず、日本に残り、1998年の暮れにやっとシアトルへ。最初は英語もできない、知り合いもいない、ということでストレスがたまりましたが、それも束の間、入国後2週間でベルビュー の CNA という建築会社に就職が決まりました。

そしてすぐにシアトルのホッケーチームに入団されたそうですね。

シアトルへの移住が決定した1997年にインターネットでホームページを探し当て、メールと電話であらかじめ連絡をとっていたので、シアトルに到着した3日後には練習に参加しました。面白いのは、メンバーのレベルが様々、練習はすごくだらだらやって「本当に大丈夫?」という感じなのに、試合になると、やる気と集中力は日本人の100倍以上だということ。だからすぐ乱闘になったりして・・・。また、負け試合で落ち込んでいる私に、「珠恵、何を落ち込んでいるの!また次!次!」と言ってきたこと。最初は社交辞令でなぐさめで言ってくれているのかと思っていましたが、本当に心からそう思っているということがわかりました。わたしはチームメイトに “Intense Girl” と言われるくらい気性が荒いゴーリーで通ってます。アメリカ人の上をいってるかも。

シアトルの建築会社はいかがですか?

最初はかなりのカルチャー・ショックを受けました。特にこの世界は、能力がなければどんどんクビにされます。日本のように、上が下を育てるという感覚はほとんどないでしょう。個人個人の能力を切り売りしているようにも思えます。前述のように、日本の建築やデザインはディティール・レベルの世界が勝負で、とにかく細かい気配りがいたるところにあります。しかし、私にとってこちらのデザインはどちらかというと大味。プロポーションよりも、色使いやデコレーションの表装に気を使う傾向があります。しかしその一方で、ヒューマン・スケールが大きいのでデザインがダイナミックであり、また、インテリア・デザインの歴史が長いので、「やはりすごい」と思うこともたくさんあります。今は日本とアメリカの違いを楽しんでいます。

1998年に長野で行われた冬季オリンピックでも日本代表になられましたが、その経緯は。

1997年夏に最終選考合宿に参加しました。20名の選手枠には入れませんでしたが、選手登録は行いました。もしどちらかのゴーリーがケガでもしたら飛んでいくということでした。しかし、長野オリンピックは無事終了し、プレーのチャンスはありませんでした。

1999年には、US National への出場という素晴らしいチャンスが訪れた。

監督から打診があったのは1999年11月。US National はアメリカ国籍保持者の参加しか認められていないのですが、私の場合は永住権保持者ということで USA Hockey が承認。そして Japan Ice Hockey Federation から USA Hockey への移籍を IIHF(世界アイスホッケー連盟:International Ice Hockey Federation)が認可しました。それからアラスカのアンカレッジで行われた Pacific Division の試合で、アラスカ州などの強豪を退けて、あれよあれよと勝ち続け、夢の US National の出場権を得ることに。まさか再び大舞台で闘うことができるとは夢にも思っていなかったので、本当に嬉しかったです。

同時に日本のチームからの誘いもあったそうですが。

ワシントン州の代表として出場が決定した US National の本大会と同日に行われる IIHF Women’s Ice Hockey Championship A pool に日本代表からオファーがありました。どちらかを選ばざるをえなくなりましたが、とりあえず日本代表チームのカナダでの合宿に2日間だけ参加してみました。長野オリンピック終了後、私の元に送られてきた日の丸のユニホームを手にした時、なんとも言えない複雑な気持ちになったのに、それからまた思いがけなく日本代表のチャンスが巡ってきて、眠れない夜を過ごしました。夫は「気持ちが一番向いている方を選んで」と言ってくれました。ワシントン州のジル・オーウェン監督に相談すると、「その状況で自分の国の代表に選ばれたら、私も同じように悩むと思う。珠恵が幸せにプレーできる方を選んでくれたら、私達にとってもそれが幸せなのよ」と言って下さいました。彼女は消防士でホッケー選手としても人間としてもすばらしく、尊敬する人。結局、私は現在の仲間であるワシントン州代表チームの一員として、US National に出場することを決意しました。結果は5位でセーブ率は2番目でした。

最後に、アイスホッケーを通して学ばれたことを教えてください。

どんな時にも諦めないで、自分を信じて、自分と闘うこと。ゴーリーはとても孤独で、他のポジションとはまったく違います。試合に勝てばすごく讃えてもらえますが、負けたら一生落ちこむくらいの罵声が浴びせられますから、他のポジションより結果がすごくリアルに跳ね返ってくると言えます。そういう意味ではデザインの仕事も一緒。自分の感覚とデザインを信じて、それを貫くことが大事です。もし中途半端な気持ちでいたら、自分に跳ね返ってくる。第一線でホッケーをプレーする時期は限られていますが、インテリア・デザインの仕事は年齢とともに成長していくことができる。ホッケーも、インテリア・デザインの仕事も、ただ純粋に好きでしょうがないのです。

掲載:2000年8月

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