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播磨昌義さん 茶葉販売会社経営

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今年に入って、開店から3年が経過したマサリサ・ティー・ハウスを閉店。その直後に抹茶ラテ・ミックスなどの商品を中心にした Three Tree Tea Company を設立した播磨さんにお話を伺いました。
※この記事は2005年7月に掲載されたものです。

播磨 昌義(はりま まさよし)

1961年 兵庫県神戸市に生まれる
1979年 インテリア・ディスプレイの会社就職
1981年 スーパーマーケット就職
1991年 クラブ・モナコ就職
1995年 阪神大震災が発生、失職
1999年 渡米
2002年 マサリサ・ティー・ハウスを開店
2005年 マサリサ・ティー・ハウスを閉店、スリー・ツリー・ティー・カンパニー設立、現在に至る。

【公式サイト】www.threetreetea.com

阪神淡路大震災が渡米のきっかけに

渡米することになったきっかけを教えてください。

渡米の本当のきっかけを作ったのは、僕の住んでいた神戸で1995年に起こった阪神淡路大震災です。あの地震で仕事を失い、風呂にも入れないままの避難生活が2週間ほど続きました。それから生活するためにいくつもアルバイトをこなしたのですが、そのアルバイト先の一つで、JET プログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業:The Japan Exchange and Teaching Program)で神戸に来ていたリサ(妻)と出会ったのです。地震がなかったらそのアルバイトもしていなかったでしょうし、彼女にも出会えていなかったと思います。そしてもちろん、彼女と結婚してアメリカに来るなんてこともなかったでしょう。それまでニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコに旅行で来て、「いいところやな。こういうところに住みたいな」と思ったことはありましたが、夢に過ぎないと思っていました。ですから、僕の渡米のきっかけは地震だったと思います。

地震が起きる前はどのような仕事をされていたのですか。

日本で学校を卒業してからの2年間はインテリア・ディスプレイ、その後10年間はスーパーマーケットを経営している会社で店長をしていました。今から考えると、4トン・トラックで卸売市場に行き、キャベツの箱を開けてナマでかじって味を見て買ったり、年末などに何百ケースものミカンを買う時は「これは時間を置けば甘くなるミカンかそうじゃないか」と見極めたりといった経験を通して、味に対するこだわりみたいなものが出てきたようです。

20代の頃は、「30代はオッサンや」と思っていたのに、スーパーマーケットで働きながら30歳を迎えるに至って、「俺はこのままここで終わるんちゃうか」と、怖くなりました。そして「このままではあかん、何かせんとだめやな」と考えていたら、ふと友人に「お前はファッションのセンスがないなあ」と言われたことを思い出したのです。インテリアのディスプレイはやってましたが、自分の服装に対する興味はゼロ。スーパーマーケットの店長で毎日エプロンとネクタイでトマトとかきゅうりを扱っていたわけですから仕方がないと言えば仕方がないかもしれませんが、「一回、アパレルにチャレンジしてみよう」と思いたちました。そこでスーパーマーケットの会社を辞めて、神戸の六甲アイランドにあるクラブ・モナコでアルバイトを始めたのです。僕は何でもがんばる性質なので、しばらくしてその六甲アイランド店の店長になり、毎日一生懸命に働いていましたね。しかし、地震が起こった時にすべてが終わってしまいました。六甲アイランド自体がめちゃくちゃになり、店は閉店に追いやられたのです。

それからどういう生活をされたのですか。

やはり、地震はすごくショックでした。仕事がなくなっても生活しなくてはなりませんから、できるアルバイトなら何でもかけもちでやりました。昼間は警備員、夜はウェイター、そして深夜はパチンコ店の掃除など、とにかく見つけられるものは手当たり次第。生活するために必死でしたね。でも地震のおかげで「何か起きた時に、自分がどう対処しないといけないか」と考える危機感を常に自分の中に持つようなりました。また、会社の一員ということに対する安心感がなくなりましたね。何かあったら仕事がなくなるというのを体験したので、「アメリカに来ても、自分でビジネスをやりたい」と思うようになりました。

そして、フィットネスクラブでもかけもちで働くようになりました。六甲アイランドのクラブ・モナコの近くにはカナディアン・アカデミーもありますから、外国人が多く住んでいます。また、そこでイタリア人とも一緒に働いたことがあったので、英語はしゃべれないくせに「なんとか英語を使いたい、外国人と接したい」と思い、そのフィットネス・クラブに来ていたリサに話しかけたのです。リサはアメリカ人ですから、日本人は誰もわざわざ話かけたりしなかったのですが、僕は「どこから来たの」と聞いてみました。そしたら「シアトル」と彼女が答えたんですよ。僕は六甲アイランドにあるオールド・スパゲティ・ファクトリーのテーブルマットに書かれた店舗リストにシアトルがあったのを覚えていたので、「あ、じゃあ、オールド・スパゲティ・ファクトリーがあるんとちゃう?」と。そういう会話から始まり、最初はまったく特別な気持ちはなかったのですが、2人でオールド・スパゲティ・ファクトリーに行って話しているうちにとても意気投合したんですよ。その日は6時間ぐらい話し、「彼女を嫁さんにしたい」と思いました。

リサに会うまでは、結婚願望もまったくなく、結婚したいと思うような人にもまったく出会いませんでした。実家に行くたびに「いつ結婚するんだ。兄弟はみんな結婚しているというのに。早く結婚しなさい」と親がうるさいので、1年間ほど実家に帰らなかったこともあります。でも、リサと結婚することを決めた後、親に「今度、結婚するやつ連れて行く。アメリカ人や」と電話したら、親は僕が嘘をついていると思いこみ、「お前は何を言ってるんや、早く顔を出せ!」と。当日になってリサを連れていったら、みんながものすごく驚いたのはおかしかったですね。僕の家族は誰一人として外国に行ったことがないものですから、僕の家系にとっては僕がアメリカ人と結婚してアメリカに来たということは、大きな出来事だったと思います。

シアトルでティーハウスを起業

渡米されてからマサリサ・ティーハウスを開店するまでについて教えてください。

リサと結婚し、ビザがおりてから渡米しました。ゼロから始めたかったので、「なんでもやるぞ!ホテルのルーム・キーパーからやるぞ!」と思っていましたが、最初の3日間はアルバイトで造園業を手伝うことになりました。この仕事がとても辛かった。午前7時ごろから働き始めて午後3時までトイレに行くこともできない。高校3年間は柔道部でしたからガッツはあり、「負けへんぞ!」という気持ちもありますが、機械も日本の物より大きいし、力仕事をやったことがなく、体はクタクタになって、すごく落ちこみました。辛くて辛くて。なんでこんなことしてんねやろう、と。渡米してすぐはさみしかったのもあります。今だから言えますが、初めてベッドの中で泣きました。だけど、それがあったから、今はたいていのことが起きても平気ですね。あの辛い経験を思い出したら、こんなことなんてことないわ、と。その後は職歴がルーム・キーパーとは合わないということでどこにも採用してもらえず、結局は日系の某社で働くことになりました。

でもその頃から、リサと「いつも一緒にいたい」という気持ちがあったので、「それなら一緒にビジネスをするしかない」と、2人でいろいろなアイデアを出し始めました。僕たちの夢は、10年間働いて、リサが40歳で僕が50歳になった時に自由な時間があって、アメリカでロードトリップをすること。それが実現できるビジネスができるといいねということで、じゃあ何をしようと考えた時に、「シアトルには神戸の神戸風月堂みたいなところがないよね、じゃあティーハウスにしようか」とつながったのです。プランニングには2年ほど費やし、貯金して準備し、メニューも考え、アンティーク・ショップなどで家具を購入したりして、丁寧に煮詰めていきました。風月堂をイメージしながら、日本のいい雰囲気を伝える場所をと、1年ぐらいかけて店舗スペースを探しました。仕入れ元に関してはアメリカのあらゆる会社から選び、どのようにサーブしたらいいかなどを一から学びました。でも、イメージはもう頭の中にあったので、それに対して準備していっただけです。僕は絵を描くのですが、絵を描くのに道具を先に選びはしません。先にイメージを描いてからそれを絵にする道具を選ぶわけですから、このティーハウスに関してもイメージが先でした。自分たちの家のように居心地良くして、そこに自分の友達を招待するような感じにしたかったのです。遊ぶ時間もなく、クリスマスの日も準備に追われていましたが、偶然にもあの店舗スペースが見つかりました。オーナーはいろいろなところから賃貸の申し込みを受けていたそうですが、「こういう店にします」というスケッチを3~4枚描いて渡したところ、彼は「こんな具体的なイメージを抱いているのは君だけだ」と言って、僕たちと契約してくれたのです。

自分の中にあるイメージを相手に伝えるのは難しいですよね。

そうですね。リサにイメージを伝える時は、言葉で説明することに加え、絵を描いたりすることもあります。最初はフォークの向きからお茶のカップの取っ手の向きまで、統一するのにとても大変でした。でも、僕たちはお互いの足りないところを補い合っているので、ティーハウスをやっていた時も、2人3脚でとても楽でした。コミュニケーションでケンカしてぶつかることもありますけど、2人で何かを作り出して向上していける彼女とだからこそ、僕も一緒にビジネスをやりたい、と思ったのです。

マサリサ・ティーハウスを開店してからはいかがでしたか。

年を取っていくことで、昔と違って、時間の過ぎる速さをわかってきました。自分が何かを達成しようと思ったら、今までよりももっと集中しないとできないなどのようなハードルの高さをわかっているので、マサリサ・ティーハウスを始めて最初の1年間は休みもまったく取らず、リサと一緒に1週間に100時間ぐらい働きました。でもそれはリサともちゃんとミーティングをして、「それぐらい大変になるから、それでもいいなら僕は君と一緒にやるけど、それでどうのこうの言うならできないよ」と伝えたのです。それでもリサがやりたいというので、「じゃあやろう、その代わり、1年間は休みなしやで」と。僕たちはほんとによくやったと思いますよ。しんどくてしかたありませんでしたが、ただ前に進むことだけを考えてやっていました。開店してから本当にいろいろなことをやりましたね。ケーキの種類を増やし、酒バーもやり、とにかく自分が興味あることは全部やってみました。

茶葉販売会社を設立

そのティーハウスを閉店することにしたのはなぜですか。

僕たちにとって、ティーハウスはあくまでも自分たちの夢を実現するための方法の1つでしたが、それを3年間やってみて、その夢につながっていかないことがわかったのです。また、やりたくて始めたティーハウスなのに、それがストレスになってしまったのもあります。店というのは不特定多数の人が来るところ。僕は自分は家でラーメンを作ったら鍋から食べるような人なのですが、人が家まで来てくれてラーメンを出すなら、その人が喜ぶ顔が見たいから盛り付けを工夫するといったサービス精神はとてもあるんです。お茶を3ドル程度で売っているような店でしたが、とてもいいお客さんたちがたくさん来てくれる一方、その僕のサービス精神をなえさせてしまう、他人を尊重することすらできない人たちも来ます。「なぜそんな人たちに時間をかけてサービスしなくてはいけないんだろう。そこまでしても自分の生活が豊かになるわけじゃないのに・・・」とだんだん考えるようになり、「それじゃあもう続けていく必要がない。僕のやり方に共鳴してくれる人とだけやっていきたい」と思い、以前から考えていた卸売り販売が中心のスリー・ツリー・ティー・カンパニーの準備を始めました。でも、マサリサをやって無駄なことは一つもありませんでした。大きなことを学びましたし、最後には売却することもできました。

スリー・ツリー・ティー・カンパニーは、どういうアイデアから来ているのですか。

お茶はアメリカではまだまだ伸びていくでしょう。そして、その中でジャンクとハイ・エンドに分かれていくでしょうが、僕たちはその真ん中で、もっとユニークで、しかも大手ができないもっと小回りのきいた、家庭的でありながら品質の高いものを作りだしていければと思っています。もちろん、自分たちが納得できるものを提供しようというポリシーは、マサリサ・ティーハウスの時と変わりません。でも、だからマサリサはしんどかったと言えると思います。コスコで買ったようなものを出している店で、”This is delicious!” とお客さんたちが言っているのを聞いてガッカリしたことがあります。でもそこで思ったのは、「何であれ、おいしかったらいいんだ」ということ。ですから、「お茶は健康的でないといけない!」ではなく、お茶をブレンドしてもっとおいしくできないか、アメリカナイズではなくお茶をもっとおいしく飲むための提案をしていこう、もっと自分たちの考えを柔軟にして楽しもうということになって、それが今のスリー・ツリーに結びついたのです。ようやくこの5月にマサリサ・ティーハウスの売却が完了し、このスリー・ツリーに専念できるようになりました。しかし、マサリサの時と同様、また真夜中まで働いています。自分のビジネスですから全然かまわないんですね。本当におもしろいですよ。

スリー・ツリーの名前にはどういう由来があるのでしょう。

ウェスト・シアトルにスリー・ツリー・ポイント(Three Tree Point)という場所があり、スカンジナビアから移住してきたリサの先祖がそこで店をしていたそうです。しかし、その店を引き受けた叔母さんがアルツハイマーにかかってしまい、2年も税金を滞納して政府に店を押収されてしまいました。僕らはその名前を受け継いでいきたいということで、このスリー・ツリーに決めました。

スリー・ツリー・ティーのビジネスについて教えてください。

今年の4月ごろに抹茶ラテ・ミックスを発売し、ローカルではセントラル・マーケットと宇和島屋で取り扱ってもらっています。ワシントン州外ではアイダホ州やカリフォルニア州、アイオワ州のカフェでも出されていますし、ドイツからも引き合いがきています。東海岸や中西部では抹茶自体がまだまだ知られていませんからこれからの商品です。「抹茶は茶道じゃないとだめ」というのではなく、かといってジャンクでもない、ユニークなものでありたい。それが僕らのポリシーです。お茶というのはみんな人によりけりで、おいしいと思う人もいるし、おいしくないと思う人もいる。「これはおいしいんです!」というのは茶道にまかせて、僕らはもっとフレキシブルに「これどう?おいしい?よかった!」という感じで行きたいから、最初の商品は抹茶ラテ・ミックスになりました。さりげなく、とてもいい抹茶を使っているんですよ、というのが僕らのやり方でもあります。ここが僕の頑固なところなんですが、アメリカ人には「これはすごいんだ」と話すと、とても受けたりするでしょう?だけど僕らは「おいしいものはわかる人がわかったらいいなあ」という感じなんです。マサリサ・ティーハウスで出していた抹茶ロールもそうですけど、ああ見えても、あんこだって手作りでしたし、抹茶もいい抹茶を使っていましたし、とてもこだわっていました。わかる人がわかってくれていたら嬉しいですね。

今後の抱負を教えてください。

僕は何も「ぶらぼおな人」なのではなく、「ぶらぼおな人になりたい人」です。僕は控えめすぎるのか、「アメリカなんだからもっとアピールしたらいいのに」と言われますけど、できないことはできません。でも、成功の位置づけは、バランスです。家族がうまくいって、ビジネスもうまくいって、個人的な目標もうまくいって・・・と、バランスが取れて自分が納得できたら成功だと思いますが、それでもそれは途中経過でしかない。人は他人を途中経過で評価することがありますが、そこから学ぶことはできても、他人が成功者かどうか判定している時間なんて自分の人生の中でないはずです。判定する人に限って自分の人生ではたいしたことをやっていない。ですから、僕はそういう部類の人間にはなりたくない。自分が死ぬ時に人生を振り返って「ほんまに良かった」と言えるなら、成功だと思います。今はもう40を越えていますので、これからも健康で長生きし、個人的な成功を楽しみながら追及していきたいというのが自分の今の形です。すごくおもしろいですよ。マサリサでも試行錯誤がありました。抹茶プリンを出したり、マンゴープリンを出したり、酒バーをしたり・・・。いろいろなことを考えてアイデアを生み出して実行してみる、そういったことが習慣付けられ、本当にいい経験をしたと思います。

でも、経験は点で見たらわかりません。点がつながっていったら線になって経験になる。1点だけ見て落ち込んでいたら、続くべきはずの線が下がっていったり、途切れたりします。点と点がつながるんですから、次の点をいかに自分でがんばって作っていくかが重要です。楽にうまくいくことはないと、年を取ってきて思うようになりました。楽にうまくいった人もいるかもしれませんが、そんなのはほんの一握りでしょう。だから、楽にうまくいくことを願って何もせずに待ってるよりも、待ってる時間にがんばったほうが早い、と思います。「あの人、ラッキーやったね」ではなく、「あの人はあんなにがんばったんやから成功したんやね」と言われるような成功者になりたい。周りでがんばっている人を見ているので、触発されています。だから努力は惜しみません。それが自分のポリシーです。次の商品は抹茶を使ったバス・ミルク、その次はTシャツです。僕らは全員にとっての1番になる必要はないのですが、こだわっている人の中の1番にはなりたいと思っていますので、底力がある商品を作っていきたい。他社が似たような商品を出しても、「スリー・ツリーの方がおいしいわ」と戻りたくなるものを作っていきたい。そして、日本のスピリットをアメリカという土壌でコンテンポラリにどう伝えていくかが、僕たちのビジネスの醍醐味ですね。

掲載:2005年7月

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