山下英一さん (牡蠣養殖業)

山下英一さん (牡蠣養殖業)

1923年にシアトルに生まれ、父親が営んでいた牡蠣の養殖を高校卒業後に手伝い始めてこの道に入り、以来60年以上にわたり牡蠣の養殖に従事してきた山下英一さんにお話を伺いました。
※この記事は2006年12月に掲載されたものです。

山下 英一(やました えいいち)

1923年 シアトル生まれ
1932年~1936年 日本・韓国滞在
1943年6月 トゥールレイク日本人強制収容所へ
1946年 再びシアトルで牡蠣の養殖を再開し、現在に至る

家業としての牡蠣養殖

幼少時代をシアトルと日本で過ごされたそうですね。

昔の牡蠣の収穫の様子(トラックに積載してあるのは牡蠣)

昔の牡蠣の収穫の様子(トラックに積載してあるのは牡蠣)

僕がシアトルで生まれたのは、1923年。日本人の両親の長男です。貿易商だった父は日本とアメリカを行き来する仕事をしていました。そして、小学生だった1932年に両親と一緒に日本と韓国に行ったんですよ。その後の戦争で当時の同級生はたくさん亡くなりました。従兄弟も2人亡くなっています(そのうちの1人は学徒出陣で海軍に入り、人間魚雷「回天」に搭乗して1945年1月21日に死亡した塚本太郎さん)。そして、日本を出国しても良いとの許可が出た1936年にようやくシアトルに戻ってきました。それよりも遅く帰って来ていたら、戦争で死んでいたかもしれませんね。

お父様はどのようにして牡蠣の養殖のお仕事を始められたのですか。

僕はまだ幼かったのでよく覚えてないんですが、1930年より少し前のころから、日本からの種牡蠣を買いたいという人たちがこちらにたくさんいたそうです。カリフォルニアのゴールドラッシュ(1848年~)のために人口の大移動があり、牡蠣が乱獲されてしまったことがその理由だそうですね。東海岸の牡蠣を持ち込んで養殖を試みた人もいたけどうまくいかなかったらしい。そうしている間に、垂下式の牡蠣の養殖を始めた宮城さん(世界で初めて垂下式(すいかしき)の牡蠣養殖法を開発し、世界の国々に牡蠣を持ち込み養殖を成功させ、「世界の牡蠣王」と呼ばれた宮城新昌氏:1884-1967)さんがサミッシュ・ベイ(Samish Bay)に購入した地所で日本から持ち込んだ牡蠣を使って養殖を始められたのです。最初は全滅してしまったらしいのですが、それについていた種(牡蠣の子供)が少しの間にずいぶんと大きくなったので、日本から種牡蠣を入れることになったそうですよ。それで、父は日本から種牡蠣を持ち込み、ワシントン州の沿岸で売りはじめたようです。

それから父はその仕事を拡大し、アラスカ州からワシントン州、そしてカリフォルニア州まで広くビジネスをしていました。ところが、日本の種牡蠣業者はたくさん売りたいものですから、いつも注文以上の品物を送ってきたんだそうです。生きているものですから水に入れないと死んでしまうということで、父はサミッシュ・ベイとウィラパ・ベイに土地を借りて、余った種牡蠣を撒いて養殖を始めました。おそらくそこは当時、ワシントン州で牡蠣の養殖が最も盛んだった場所じゃないかな。材木業は木を伐採しすぎてだめになり、漁業はコロンビア・リバーの漁獲量が減ってだめというところに、新しい事業の牡蠣が来たというわけで、たくさんの人が牡蠣の養殖を始めました。市場がまた出来上がっていなかったので、いろいろ努力と工夫をしたわけです。ところが、種牡蠣を日本から安く入荷してそれを販売する一方で、養殖もしてその販売もしているのは特権乱用だと攻撃を受けた父は、牡蠣養殖業者の組合を出てしまうことになりました。現代なら、大きな企業はみんな製造元から大量に安く購入していますでしょう。それで競争することは悪いことではない。でも、かわいそうな父は結局、1人で養殖をすることになってしまいました。第2次世界大戦の始まる1~2年前には日米貿易も停止されてしまいましたから、貿易で食べていた私たち一家は路頭に迷う寸前のところ、幸いなことに売り物だった牡蠣が残っていたので、それを食べて食いつなぎました。

自分も牡蠣の養殖を開始

山下さんご自身も牡蠣の養殖を始められることになったきっかけを教えてください。

垂下式の養殖場

垂下式の養殖場

私が高校を卒業する頃、父に「おまえも牡蠣の養殖に携わってみないか」と言われたのが、この道に入ったきっかけです。私は、「はい、やりましょう」とだけ答えました。今日はよくしゃべってますが(笑)、あの頃はほんとに無口だった。いつも口を閉じていたので、誰かに「そんなに “clam up” しなくてもいいだろう」なんてよく言われたものです(笑)。とにかく、牡蠣の養殖は本当にきつい仕事でしたが、僕は一生懸命だった。そうこうするうちに1941年になって太平洋戦争(1941年12月8日~1945年8月15日)が始まってね。そして翌年の3月になって、FBI 捜査官だというおじいさんとおばあさんが家にやって来ました。「ミスター・ヤマシタ、あなたを3ヶ月も探して、ようやく見つけた」と言うのです。父は貿易商をやっていた時はスミス・タワーで日本人弁護士とオフィスを共有してましたが、貿易がなくなってからは養殖をしていたサミッシュ・ベイの方に一家で移ったため、行方がわからなくなってたのでしょうね。そして2人は家に入ってきて書類や何やかやを調べましたが、父は「せっかく来たんだから」と、牡蠣を袋いっぱいに入れてあげたんです。2人はお礼を言ってそれを持ち帰りましたが、どうやら賄賂にあたるのではないかと思われたみたいで、翌日にはそれを返しに来ました。本当に、戦争が始まってから、小さなことでいろいろ怪しまれましたよ。ベリングハムにちょっと買い物に行く用があったので、僕がいつものトラックから乗用車に乗り換えて出かけたのも、それを見ていた FBI のおばあさんに怪しまれました。海辺には飛行機を打ち落とすための高射砲なんかも備えてあったから、夜にランタンをつけて牡蠣を取っていたら、兵士に「こっちへ来い」と言われて・・・水の中をちゃぷちゃぷ歩いていきましたら、「何をしてる」と言うので、「牡蠣を採ってる」と答えたら、何もとがめられませんでした。でもそうこうするうちに日本人と日系人はみんな強制収容所に入れられることになりましたね。

山下さんはどの収容所に送られたのですか。

私が送られたのは、カリフォルニア州のトゥール・レイクにあった強制収容所です。国境近くのブレインを出発して、ベリングハムを通ってきた汽車に、僕らはバーリントンから乗ったんですよ。そしてエベレットに行きました。そこからは、鉄道関係の人たちなんかが乗ってきましたね。そしてシアトルを通ってトゥール・レイクに着きました。ずいぶん昔ですね。

そして終戦後には、やはりシアトルに戻ってこられたんですね。

山下さんの幼い頃、両親とのスナップ

山下さんの幼い頃、両親とのスナップ

戦争が終わって、「さて何をしようか」と考えてみても、一番知っていることは牡蠣でしょ。戦争が始まる前の1941年の夏、日本から仕入れていた種牡蠣を撒いたらとってもよくついてね。フッド・カナルのあたりにびっしりと牡蠣がついた。父も僕もたくさんの人に種の付け方を教えたものですから、僕ら一家も強制収容所に送られることになった時、一緒に養殖をしていた人たちは、「自分の土地の一部に撒いておくから、帰って来たら使えるようになってるだろう」と言ってくれたんです。みんな日本人の悪口は散々言っていましたが、「お前は違う、お前は友達だ」と言ってくれましたね。終戦後に帰って来てみたら、その言葉通り、撒いておいた種牡蠣が使えるようになっていました。そうたくさんではなかったんですが、それでも足しになりましたね。そしてビーチを持っていた人たちのところに行って牡蠣を譲ってもらったりして、また養殖業を本格的に始めたのです。そのうちに日本から種が来るようになり、助かりました。でも父はもう体が弱っていましたから、私が中心になって商売を進め、まだ高校生だった弟も手伝ってくれました。高校を卒業した弟はメディカル・スクールに入学し、勉強の最中にも収穫する11月になったらすぐに手伝いに来てくれてね。だけどある日、牡蠣を採りに出かけた際にボートが転覆してしまい、乗っていた4人のうち弟を含む3人が溺れて亡くなってしまいました。悲しいことですよ。本当に。でも、両親のためにも商売を続けなくてはなりません。父の従兄弟の甥なども日本からわざわざ手伝いに来てくれたりしました。これは楽な仕事ではありませんから、大変だった。でも、なんとか今日まで続いたわけなのです。

ピュージェット湾の汚染が問題になっていますが、山下さんご自身もそれを経験されているのでは。

そうですね、水の問題もたくさん起きました。牡蠣を育てるのにきれいな水は絶対に欠かせません。でも、1940年代から1950年代は製紙業、1978年ぐらいになってからは人間や犬などのペットが原因の排泄物やゴミ、家庭からの排水などによる公害問題が出てきました。そしてそれは今でもずっと続いていて、大きな問題になっていますね。1978年から数えると約30年です。当初はみんな環境を管理することで生活に悪影響が出ると反対していましたが、今はそのころと比べれば、みんなが協力しようとしている。時代の流れですね。

今でも「毎日仕事」が元気の秘訣

83歳になられた今でも毎日お仕事に出かけられているとか。

山下英一さん (牡蠣養殖業)

もちろん、今でも毎日仕事に出かけますよ。土日でも必要であれば出かけます。それだから元気でいるんですよ。そうしてなかったら、しおれちゃう(笑)。今日のようにこうして家にいるのはごく最近です。と言うのも、これまでは月曜に出発する飛行機で配送を頼むお客さんが多かったので日曜に出荷の準備をしなければならなかったのですが、そのお客さんたちがコスト削減のために金曜発のトラック輸送に切り替えたので、土日に働かなくてよくなったのです。昔は牡蠣の養殖というのは種をまいてからそれを出荷できるようになるまでのサイクルが3年だった。ですから毎年売れても売れなくてもやってないといけないわけね。でも、父が「英一、垂下式をやったらいいんだ」と言ったことで変わりました。垂下式というのは先にも言った、宮城さんが開発したやり方でね、牡蠣を海水に浮かせて養殖するというものです。育ちが速くて、よく太る。それが垂下式の特徴です。広島からわざわざ人に来てもらってね、しばらく手伝ってもらった。この人が本当にいい人でね・・・大変お世話になったものですよ。また、牡蠣の市場も大きくなりましたね。昔は「生牡蠣を食べるのは危険だ」という新聞記事が出たものです。ですから、お寿司なんて、とてもとても。でもこのごろはなんとも言いませんね。みんな好きでしょう、生牡蠣。昔は殻を剥いた牡蠣が主流で、殻つきのものは売れなかったんですけど、今はその正反対です。

これからの抱負を教えてください。

僕は今、新しい養殖場が成功するようにがんばっているところです。この仕事の楽しいところは、自分でいろいろやった結果を自分で見られることです。今から50年も前のことですが、小さな金物の道具をこしらえている工場で働いていたエンジニアの人に、「どうしてこんな小さい工場で働いているの」と聞いたことがあります。その人は、「自分の案を自分のものとして、最後まで見届けることができるからだ」と答えました。「大きな会社だったら、自分が出した案も上司に取られたり、勝手に変えられたりしてしまう。でも小さなところはそうじゃない。だから大きな満足感を得られるんだ」と。僕の牡蠣の商売だってそうなんです。自分で考えたことの結果が1~2年の間にわかる。海底の状態が良くなかったら、自分で、「じゃあ砂利をしいてみようか」と考えて、工夫できる。そのおかげで良い結果が出たら、本当に楽しいですよ。

【関連サイト】
東日本放送 『遥かなるオイスターロード』

掲載:2006年12月

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