ファッションと言えば、だいたいパリ・ミラノ・ロンドン・ニューヨークですよね。ニューヨークの FIT と Parsons School of Design の2校も資料とアプリケーションを取り寄せましたが、アメリカのビジネスや競争主義のもとで私はやっていけないと思い、ニューヨークは却下。ロンドンのファッションも私の好みとは違う。パリはデザイン中心。でも、ミラノは素材がそこで生産されている、物作りの国のすばらしさがある。大学時代、自分が生地そのものをすごく好きなんだということに気付いていたので、じゃあイタリアに行こうと思い立ちました。せっかくの貯金を使って行くなら楽しいところに行きたいという思いもあって(笑)、イタリアに決めました。2年ほど週に1回イタリア語学校に通い、また NHK イタリア語講座を独学したりしましたが、留学の準備は学校の入学・ビザ・ポートフォリオの制作以外は特にしませんでしたね。そして、1997年3月にイタリアについてからは、もう毎日が楽しくて楽しくて、こんなに楽しくていいのかと思うぐらいでした。もちろん、留学では大変なことがいろいろありますよね。このシアトルと違って、ミラノでは銀行から何から何まで普通の生活が機能していない(笑)。でも、行きたくて行った私は、たいしたことをしていなくても、ただもう違う物を見て食べて、好きなことができるのが楽しかったんです。こつこつと貯めたお金で、自分で初めて選んで好きなことをやっているのが、すごい開放感でした。それまではレールに乗ったまま、自分のライフワークなんてものを考えることもなく、そこまでチャレンジもせず、普通に大学に行って、女の子だから文学部で、結婚して子供を産んでという考えでした。でも服飾デザインを見つけてからは、「今しかないんじゃないか」という思いが生まれたんですね。
そうしてやっているうちに、やればやるだけいいんだと気付いてとにかくやり始めたら、卒業展に出してもらうことができ、"Best of the
Year" 賞ももらい、『VOGUE』 の小物制作にも参加させてもらうことができました。嬉しいことに、成績がとても良かったので、学校推薦の優秀学生として就職先に送られるリストの中の1人に入ってました。自分が探し始める前から面接の誘いがどんどん来ていたんです。でも、今では言うのがちょっと恥ずかしいんですが、最初に就職の面接を受けたエリート・モデル・ファッションに就職しました。フランスの本社からエリートモデルズファッションというラインとともにナオミキャンベルジーンズもミラノにデザイン事務所を移動してきていました。ジーンズ・ファッションがイタリアで盛り上がっていたんですが、私が入社した時はそこにいた優れたデザイナーさんたちが先行きを見越して別の企業に散らばるころ。でも、それを知らずに最初の面接で就職してしまいました。それから約3ヵ月後になって「会社が引き上げるから」と言われたんです。
佐藤さんがパッケージから制作した作品集
でもそこにいたデザイナーたちが、1ヵ月後に小さいデザイン事務所
Studio SF を開けるから来ないかと誘ってくれたんです。既にお話しましたが、成功とか、絶対にこうしなくちゃとか、就職熱とかもなく、ただ好きなことがやりたいという私は、イタリアに残ってずっとやっていこうなんてことまで考えていませんでした。そこでとても低い時給でしたがその事務所で仕事を始めてみたら、今度はフェラガモかやミウミウから面接の誘いが来たんです。それをその事務所の人たちに話したら、昇給してくれることになり、結局、1999年1月から正式にやることになり、有名ブランドはすべて逃しました(笑)。でも、小さいところでしたから、ロゴから何から何まで作り、それが大切な経験になったと思います。私の担当はミラノのライン、カンヌのプレタポルテのセカンド・ライン。生地はミラノの展示会で端から端までブースを覗いては面白いもののサンプルを注文したり、エージェントに足を運んでもらい生地や付属のサンプルを注文し、生地を選びこみ、テーマを決めていきます。ボタンなどの付属品も、見ているだけで楽しい作業でした。 デザイン画を起こし、平面画を描き、仕様書を作り上げ、パターナーの工場に持っていき、サンプルを作ってもらい、全てのコレクションを作り上げるというのがデザイナーの大まかな仕事です。