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プロセ:女性、仕事、そして人生
プロセ:女性、仕事、そして人生
       
  著者プロフィール:神尾季世子
弁護士として、雇用法を土台としたコンサルティング・ビジネスに携わる。ライターとしても、雇用法、移民法、憲法、遺産相続など幅広い分野において執筆。代表作は GLOBAL CRITICAL RACE FEMINISM: AN INTERNATIONAL READER (2000, New York University Press)に収録された。フィッシュ・アンド・リチャードソン、モリソン・フォースターなど日米の国際法律事務所で訴訟関連プロジェクトに関わる。連絡先は、info@kamiolaw.com。当コラムのタイトルにある「プロセ(Pro Se)」は、ラテン語で "on behalf of oneself" という意味であり、弁護士を雇わずに個人の力で訴訟を起こす原告を指す専門用語。「自力で道を拓く」という私的解釈により著者の好む言葉である。

お断り:著者は、一個人として、また弁護士として、プライバシー尊重という理由に基づき、当コラムで扱う人物名や場所名、または設定などにおいて、ある程度の内容変更を余儀なくされる場合があります。御了承ください。
   
       


第1回:10時22分の幸せ

10時22分の電車が好きだった。車窓から射し込む小春日和の柔らな陽光を浴びて、編み棒を器用に操るお婆さんの姿を眺めながら、うとうとしたりする。そんな朝が好きだった。通勤ラッシュの殺気立った喧騒が消えた車内にいるのは、デパートにでも出かけるらしい主婦やお年寄りだったり、今で言うフリーターらしき容貌の青年だったりする。どこか穏やかな空気が流れる車内の雰囲気に身を浸すのが快適で、月に1、2回、私は大幅に遅刻して通学するようになった。

いつも乗る、いや乗らざるを得ない7時23分の電車では、全く異なった風景が映し出された。経済紙を広げる背広姿のサラリーマン。流行の服に身を包んだ OL。ノートに顔を埋めるように試験勉強に精を出す高校生。そんな乗客にびっしりと囲まれ吊革につかまる中、あくびを噛み殺しつつ、「ああ、また1日の始まりか」と気だるい表情で、車窓の外に流れる世界を眺めたものだ。

私は鼻っ柱が強い高校生だった。校則を辛らつに批判した記事を新聞の全国版に載せた挙句、緊急職員会議で槍玉に挙げられたりもした。誰もが当然のように受験勉強に励む進学校で、就職希望と担任に伝えていた。進学校なんて、と冷めた目で見つつ、一方では、その「ブランド」へのプライドを断ち切れない自分への苛立ちが募る。濃紺の制服の下にそんな矛盾を抱え込んだまま、私はプラットホームへと続く階段を上っていた。そのうち、ぐずぐずと身支度をするうちに、7時55分の電車に乗って遅刻するのが常となり、気がつけば10時22分となっていた訳だ(放課後に呼び出しを食らい、油をしぼられる羽目となってからは、さすがに7時23分の電車へと舞い戻った)。不良に憧れはしても、不良にはなれない。学校をさぼって遊びに行く勇気などあろう筈もなく、わざと遅刻をするのが、青っぽい女子高生の精一杯の抵抗だったのだ。

「たのしかったねえ、ママ」3歳児の声で、ふと現実に引き戻される。ほのかに湯気が立つココアの紙コップを後生大事に両手に掲げた娘が、テーブル越しに笑いかける。彼女を連れて通っていたサッカー教室が終わった後、スーパーに隣接したカフェで過ごす母子のひと時だ。ココアを片手に、とりとめもない会話を交わす。そしてスーパーで買い物をして家路につく。この時間帯だと店内も空いており、そのゆったりとした雰囲気のせいか、レタスやラディッシュたちも色鮮やかに、そして瑞々しく目に映る。仕事帰りの客がせわしげにカートを押して歩く夕暮れ時のスーパーとは異なった世界がそこには広がっている。10時22分の幸せ。娘と過ごすこの時間を私はそう名づけ、ひそかに悦に入っていた。10時過ぎにサッカー教室を出るため、時間的にほぼ一致していたということもある。それにもまして、学生時代のあの電車で感じた柔らかな朝の光が、季節の移ろいを超え、再び心の中に射し込んだように思えたからだ。

アメリカで「7時23分の電車」に乗り込んだ日々が甦る。子供嫌いで、夫婦二人きりの生活を堪能していた頃でもある。新米の弁護士として連邦裁判官の元で判決文を執筆・編集する仕事に就いた私は、長距離通勤のため、実際には7時23分どころか、暗いうちに家を出て急行バスに揺られる毎日を強いられていた。バスには、腰を下ろした途端に鞄から取り出した書類を熟読し、「ふろしき残業」よろしく、通勤時間を仕事にあてるスーツ姿の乗客が私以外に幾人もいた。職場に着けば、重厚な家具が備えつけられた個室のオフィスが待ち構える。上司の裁判官の机上には、全米各地から届いた就職希望者のカバーレターと履歴書が、文字通り山と積まれている。それは、競争をくぐり抜けて獲得したポジションだった。だが、訴訟という時間との闘いが必須となる世界に身を置き、長距離通勤のストレスも重なって、私は身も心も憔悴していた。

そんな日々を経て、思いがけず私も一男一女の母となった。幸い家庭内でできる仕事も見つけた。キャリアウーマンでございと豪語する程の仕事の量をこなす訳でもない。キャリア形成という点では不利極まりないが、そういうライフスタイルを選択したからこそ、水曜日の朝、ココアの湯気の中で10時22分の幸せを堪能する時間にも恵まれたのだ。このまま、ずっと10時22分の電車に乗り続けるのも悪くない。そう心が呟く時がある。だが、人間とは、いや私とは勝手な生き物なのかも知れない。ガラス越しに浴びる光に目を細め、その温かさに酔いしれつつ、ふと7時23分の電車で感じた、あのピンと張り詰めるような緊張感に再び身を浸したい願望もふつふつと湧き上がる。

子供の成長の早さを目の当たりにするたび、痛いほどに思い知らされる。これから親は少しずつ後ずさりしていき、やがては彼らの後姿を静かに見守るしかないのだという事実を。この9月を皮切りに娘も息子の学校の付属幼稚園に入園し、初めて2人が同じ学校に通うようになった。サッカー教室もやめ、10時22分の幸せもどこへやらだ。朝、2人を連れて校舎に入ると、制服姿も板についた息子はバイバイも言わずに教室へと一目散に駆け出す。娘とはまだ手を繋いで教室に入るが、やがて彼女は私をぐいぐいと強い力で押し、「ママ、もう行って!」を繰り返す。母は苦笑をもらしながら、くるりときびすを返し駐車場へと向かう。子供達がそれぞれの物語を紡ぎつつある中で、私も自分の生き方を再び模索する時期にさしかかっていた。頬をなでる風に新たな季節の到来を感じながら、車に向かって歩く。10時22分の電車にしばらくは別れを告げることになるのかと、期待の高まりと同時に、一抹の寂しさが胸をよぎるのを悟った。

(2009年2月)


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