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| ヘルスケア分野における情報統合システムと医療器具製造・販売では業界のリーダー的存在であるスペースラブズ・メディカル社で、ローカリゼーション・コーディネーターとして勤務されている高野さんにお話を伺いました。 |
渡米
留学されたきっかけについて教えてください。
国際結婚をした父の姉(僕の叔母ですが)が夫婦でアメリカから遊びに来たときに、航空自衛隊で英語を使う部門で働いている父が英語を話しているのを聞いて、「すごいな」と思ったことで英語に興味を持ち、留学につながったと思います。そして、小学校に入学した頃に、父が英語を話せることが友達の間で「すごい」ということになり、僕も英語を話せるようになりたいなと。当時は本気で取り組みたいという気持ちはありませんでしたが、中学に入学してからは英語だけは一生懸命勉強していました。
そして、日本で高校を終えてから渡米されたわけですね。
高校留学をしてもいいかなと考えたこともあって、アメリカに住む叔母の息子たちに聞いたのですが、日本で高校を卒業してからアメリカの学校へ行くのがベストだと言われましたので、そうなったのです。最初はシアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジの英語学校に入学。僕はもともとすごく意思が強いのですが、「英語を学びたい」ということで来たのに、英語学校では7〜8割が日本人だったので、「これじゃあ学べるものも学べない」と、英語しか話さないことに決めました。日本人が話しかけてきても、英語しか話さなかったんです。先生はそれを理解してくれて、僕を他の外国人のグループに入れてくれました。日本人に対しては最初のうちは「英語で話したいから」と、僕の信念を説明しながらやっていたのですが、批判されることもありました。先生から質問をされて、先に答えた日本人の人と同じ答えを言うと「あ、マネしてる」などと言われたり、レベル・アップの試験に落ちた時は、ものすごく批判されたり・・・それが一番きつかったですね。でも、「これが自分のためになるんだ」と信じてやっていたので、変えることはしませんでした。そんなわけで学校では英語で話してくれる日本人とだけ友達になり、また、新聞広告で見つけたサッカーのクラブで地元のアメリカ人と友達になって、英語を学べる環境を作ろうとしました。サッカーでは高校の時に全国大会3位になったこともあるのですが、レクリエーションのつもりで。その時に出会った人たちとは今でもずっと友達です。
学生時代に将来への準備を開始
その後、スカジット・バレー・カレッジに入学されましたが、学生生活はどうでしたか?
シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジの英語学校を終えた後、スカジット・バレー・カレッジで正規の学生になりました。ここでサッカー部に入ることができたんですが、ESLをようやく終わらせたところでいきなりポリティカル・サイエンスやエンジニアリングやバイオロジーなどの難しいクラスを取りながらサッカーをやっていたら、大失敗。専門用語が多いし、1日に30ページも読めるわけがなく、友達に手伝ってもらってポリティカル・サイエンスはようやくC、エンジニアリングとバイオロジーはC以下でした。するとアメリカ政府から「このままだと強制送還になる」と電話と手紙が来ました。また、学校のカウンセラーからも電話がかかってきて「アドバイザーと話しなさい」と言われ、翌日にはアドバイザーに「次の学期はそれほど難しくないクラスを取って、1学期間はサッカーをしないように」と言われ、そのとおりにすると成績も良くなりました。サッカーを言い訳にしたくはないのですが、練習で疲れて宿題ができないとか勉強ができないといったことがあったんですね。とりあえず基本的な数学や美術をとって成績を挽回しました。
その後、コミュニティ・カレッジに行きながら、通訳・翻訳の学校に行かれたそうですね。
スカジット・バレー・カレッジが日本の高校と一緒に運営していた短期留学プログラムのアシスタントとして働いた時に、こちらのスタッフと日本のスタッフ、先生とホストファミリー、そして生徒とのコミュニケーションを担当させてもらって「こういった通訳・翻訳が僕のやりたいことじゃないか」と思うようになったのです。日本にいた時にも写真工場やガソリンスタンド、引越会社でアルバイトをしたりして、「自分は会社の中だけでコツコツやる仕事よりも、人間関係の中で働いていきたい」と考えたこともありましたし。そして、電話帳で見つけた翻訳会社に片っ端から電話をしたらシアトルにある通訳・翻訳学校のことを教えられたのです。学校を訪問した際に、先生に「通訳・翻訳をやりたいんだが、どこから始めていいのかわからない。スカジットから来るのも大変だし、自分でできることがあれば教えてください」といったら、この学校を卒業したらプロフェッショナルの翻訳家として働くことができるプログラムがあると説明を受け、入学を決めました。この学校の授業料は、スカジットでプログラム・アシスタントとして働いた給料で支払いました。でも、シアトルまで通うのは大変でした。スカジットで金曜日の夜まで授業を受けてから夜にグレイハウンドのバスでシアトルまで来て、サッカー友達のところに泊まらせてもらって。友達がいたからできたことだと思います。
その後、セントラル・ワシントン大学を選ばれたそうですが、どういった理由があったのですか?
サッカーです(笑)。試合で僕のプレーを見て、セントラル・ワシントン大学のコーチに「興味があるから、来てみないか」と言われ、一度だけ試合に参加させてもらうついでに、学校見学もさせてもらいました。どうしてもインターナショナル・ビジネスを取りたかったのですが、ワシントン大学よりも授業料が安く、インターナショナル・ビジネスの専攻はなくても、教科学部として取っていくことができると言われて、入学を決めたのです。でも、編入に必要な日本の銀行からの残高証明書が日本語で送られてきたため、新学期初日1週間前になっても合否の回答が出ませんでした。そこで合否を出す人にアポを取り、初日の2日前に成績証明書を持って「どうですか?」と話に行ったら、「成績も十分だし、残高証明書が後で送られて来るなら、とりあえず入学しておきなさい」と言ってくれたのです。そして、ちょうど英語版の残高証明書が届いて、命拾いしました(笑)。そんなわけで住むところも決まらず、サッカーで見つけた友達の家に居候させてもらい、入学が確定してからアパートを探しました。学校は既に始まっていて、大学の近くのアパートなどはほとんど入居済みになっていたのですが、ようやく新聞で70歳ぐらいのおばあさんが1人で住んでいる家の貸家広告を見つけて「僕は大学生だけど、パーティー好きじゃないし、ただ学校とサッカーが目的なんだ」と話したら、入居を許可してくれました。すごくいい人でしたよ。たまに彼女の人生論を話してもらったりして、おもしろかったです。
就職、会社倒産、そして再就職
最初の就職はどのようにして決まったのですか?
セントラル・ワシントン大学で知り合った友達がコンピュータ関係に詳しくて、彼に手伝ってもらって、インターネットで翻訳会社を見つけました。ワシントン州外の会社もありましたが、僕にとって親のような存在の叔父と叔母に近いほうがいいと思い、ベリングハムの翻訳会社にコンタクトを取ったのです。僕は車も面接に来て行くスーツも持っていなかったのですが、叔父が「君の仕事にはそういう格好が必要だ」と言ってスーツを用意してくれた上、会社まで車で連れて行ってくれました。事前に翻訳テストを受けていましたが、面接に行って、もう一度テストを受けて合格し、仕事のオファーをもらいました。当時は英語から日本語に訳す翻訳編集者でした。
就職されてどうでしたか?
大学でも働いていましたし、アメリカの組織の中で働くことに対しての違和感はあまりありませんでした。アメリカに来てから地元の人とばかり交流していたのですが、日本語部は日本人の同僚ばかりで、そっちの方が違和感がありましたね。僕が1番年下でしたが、先輩・後輩関係というのはサッカーを通してわかっていますし、後は仕事をちゃんとやっていればいいということでやりやすかったですね。
今の会社に移られたのはどういった理由があったのですか?
前の会社は、倒産してしまったのです。景気が停滞し始めた時に、会社がプロジェクトで大きなミスをしてしまい、それで経営が少し傾いてしまっていたのです。H1Bビザで働いていたので、社長に「会社がなくなるけど、どうする?」と聞かれ、「別の会社がビザをスポンサーしてくれない限り、この会社でしか働けないビザなんだ」と説明すると、社長が「じゃあ2ヶ月あげるから、就職先を探せ」と言ってくれました。そして、ビザを維持するための条件として給料をもらい続けないといけない事情を考慮して、会社が倒産するというのに、給料もちゃんと支払ってくれたのです。そういった恩もあり、一生懸命に仕事を探して、今の会社の面接を受けることになりました。エージェントを通しての就職活動だったのですが、入社した後で聞いてみたら、僕ができるローカリゼーションと翻訳は、この会社が要望していたものとは違っていたらしいのです。でも「なんとかコイツを使うことはできないか」と考えてくれたらしく、1週間して「翻訳をがんばってくれ」という返事が来ました。僕のために仕事を作ってくれたという感じですね。余談ですが、僕の上司はもともとプロのフィギュア・スケーターだったんです。面接の時に僕が「サッカーのチームメートがクリスティ・ヤマグチの幼なじみだったので、クリスティと3人で食事して買物に行ったことがある」と言ったら、とても話が盛り上がりました。
今の仕事の内容を教えてください。
今は翻訳作業のローカリゼーション・コーディネーターとして、ヨーロッパの約10カ国の言語によるマニュアルの作成とローカリゼーションをしています。ライターが書いた英語版のテキストを、DTPの担当者がファイルにして、出来上がった書類を僕が翻訳者に割り当てるというのが基本的な流れです。また、簡単なテクニカル・ライティングやDTP、ユーザ・インタフェースの作成やエンジニアリングのプログラミングにも少しだけですが関わっています。「このようにした方が、ローカリゼーションがやりやすい」というような、ちょっとしたアドバイスを与える感じです。今までに関わった大きなプロジェクトには、23章もあるオペレーティング・マニュアルがあります。
そういったお仕事で大切なことはなんでしょうか?
時間管理と人材管理ですね。アメリカでは部署が1つの会社みたいに機能しているところが多いですが、僕のところはその典型です。翻訳にはヨーロッパの10ヶ国に住む社外コントラクターを使っているので、彼らとのネゴシエーションもしなければなりません。限られた時間と人材でやりくりしていくのはきついですね。また、その国によって哲学や考え方が異なるので、それを尊重しながら、無理を押し付けないようにしないと、いい仕事をしてもらえません。よく言われることかもしれませんが、きめ細かく、カクカクと、きっちり仕事をするドイツ人と日本人は似ているところがあると思います。とにかく、翻訳者には無理もしてもらっていますので、最もいい環境でやってもらいたいと考えています。
それにはどういった工夫をされていますか?
第1は、翻訳者に便利なように、エンジニアと締め切りの交渉をすること。第2に、翻訳者から来た質問にできるだけ素早く回答すること。また、例えばフランス語の翻訳者から出た質問を、他の言語の担当者に回すことも大事です。そうすれば、同じような間違いを避けることができます。でも、あるバージョンの翻訳が90%終わった段階で、もう次のバージョンが出てしまい、翻訳がすべて無駄になることもあります。そんな時は、働いた分のお金は支払われるとは言え、翻訳者のモチベーションが下がってしまいます。ですから、「前回の翻訳をメモリに残しておいて、次の翻訳に役立てよう」と提案するなど、物事をポジティブにひっくり返してやっていくのが僕の仕事です。翻訳者はほとんどが自宅で作業をしているので、結構ストレスがたまるんです。彼らにとってはこの会社だけが顧客ではありませんし、スケジュールをきちっと組んでやらないと時間管理が大変になってしまいます。お互いに最初はぎこちなかったものの、今では彼らが雑談のために電話をしてくることもあり、ビジネスでありながら、もうちょっと近い間柄という感じにまでなりました。普段から環境メンテナンスをしていかないと、翻訳者とのいい関係も続かないだろうと思います。人と働くということは難しいですね。
サッカーも仕事も充実
小学校5年生のころから続けておられるというサッカーですが、この夏にはイギリスでライセンスを取られるそうですが。
僕が今持っているのは、ヨーロッパのB級ライセンスです。ヨーロッパのA級ライセンスを取れば、ヨーロッパでセミプロ(2部リーグ)のコーチになることができますし、その上にあるヨーロッパのプロ・ライセンスを取れば、ヨーロッパの1部リーグのコーチになることができます。その上にも教官などのライセンスがいろいろありますが、今回はA級ライセンスに挑戦します。まずイギリスで試験を受け、その後に1年かけてレポートを書きつづけ、合格すると、ライセンスがもらえることになります。これは趣味をちょっと超えているんですが(笑)。
仕事の面での今後の抱負を教えてください。
ローカリゼーションではもっと知識を深めていきたいと思います。それからエンジニアリングにも興味があります。社内にはたくさんの人材が揃っているので、彼らにアドバイスをもらいながら、勉強していくことができればと思います。
ありがとうございました。
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1973年
福岡県生まれ
1993年4月
渡米 シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジ ESL入学
1994年夏
Skagit Valley College 入学
1996年春
Central Washington University 編入
1997年冬
Central Washington University 卒業
翻訳会社に入社
1999年
Spacelabs Medical に転職
現在に至る |

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