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1994年に渡米してから、シリコンアレーのウェブ出版社で オンラインマガジン編集長を経て、現在フリーのジャーナリスト。今年4月には本も出版。大活躍中の長野弘子さんにお話を伺いました。
少女時代

物を書くということは、昔からお好きだったのですか?

1日中でも紙に向かって何かを書いているような子供で、幼稚園の頃の誕生日プレゼントはノートとシャーペンでした。そして中学時代から詩を書き、高校時代には小説や童話を書き、新聞に投稿。また、両親、兄、姉、私といった家族全員が読書好き。両親が共働きだったため、よく図書館で本を読んで過ごしました。とにかく中学までは幸せに、のびのび育っていました。


中学校で何かが変わったのですか?


同じ中学に行っていた姉はとても真面目で頭の良い模範生。でも私はどちらかとい とのんびりした方だったので、先生から目をつけられていたようです。ある日、信じられないかもしれませんが、ポケットに飴をいれていただけで不良となってしまったのです。先生は、本当の不良は怖くて怒ることができないので、私のように、少し他の人と違う普通の子供をストレス解消に使ったのでしょう。それから卒業するま で、言葉による暴力を受け続けました。例えば、工作の時間に「おまえは想像力ゼロ だ」と言われたり、授業中に少しよそみをしていただけで、「長野!」と怒られ、授業が終わるまで立たされたり・・・。それまで、これと言って何の問題もなく育って いた私も、この理不尽な扱いが原体験となって、それ以来いろいろなことに対し問題意識を抱くようになりました。


高校に入ってからはどうでしたか?


熊本城内にある第1女子高に入り、中学の先生達ともやっとサヨナラすることができたので、またのんびりと過ごすようになりました。女子高って、何も気にしないでい られるので楽なのですよ。その頃なりたかったものは、歴史の先生。とにかく日本史が大好きで、その関連の本や漫画をたくさん読んでいました。でも、歴史の先生に「私も歴史の先生になりたい」と言ったところ、「安月給だし、おもしろくないよ」と 言われ、大学受験をするころには、女性雑誌の編集長になりたいと考えるようになり ました。それから、熊本大学の法学部を受験。当時、同大学は偏差値が最も高かったので、落ちたら就職するつもりでした。というのも、姉は同大学の薬学部を卒業して 薬剤師、兄は大分で新日鉄のシステム・エンジニアとしてそれぞれ成功していたので、末っ子の私はあまり期待されていなかったのです。結局、無事に合格しましたが(笑)。


初めてのアメリカ


大学時代に初めてアメリカに来られたそうですが。

アメリカに行きたいと思ったのは、大学時代のことです。かなりの社会派だった英語の先生が、ユダヤ人虐殺についての書籍やアメリカの公民権運動についてのビデオを教材に使ったのがきっかけでした。それに大変な衝撃を受けて・・・。特に公民権運動には、「こんなひどいことがあったとは」と、愕然としました。そして、友達3人と「いつかアメリカに行こう」と話し合うようになったのです。ちょうどその頃、熊本大学のアメリカ人教授が、毎年30人ぐらいの生徒をアメリカ横断させるという企画 を行っていました。と言っても、グレイハウンドのバスに乗り、引率者無しでアメリ カ各地合計16ヶ所周るという大変なもの。しかし、この旅が私を変えたのです。最初はヨセミテ、イエローストーン、ノースダコタのひまわり畑、ユニバーサル・スタジオなどの名所まわりをしたのですが、それよりもバスで出会ったアメリカ人達と話す方がおもしろかったのです。ほとんど英語はできなかったのに、どうにかして話していました。そして、その人たちが日本についてほとんど何も知らないことに衝撃を受けたり・・・。ようやく最後の目的地であるニューヨークに到着して街に足を踏み入れたとき、疲れきってはいましたが、なぜか「ここが私の住むところだ」と強く感じたのです。


それからアメリカへ留学して来られるまでのことを教えてください。


その旅行が終わって日本に戻り、母親に「私、ニューヨークに住むから」と言ったら、母親は「また弘子、アメリカかぶれして」(笑)。でもとにかく大学を卒業した後は、東京にある毎日新聞の子会社で働き始めました。しかし、ニューヨーク以来、ブラックパンサー(※1)やマルコムX(※2)などの公民権運動の関連人物や、スティーブ・ビコ(※3)などのアパルトヘイト政策反対運動の関連人物について書籍を読み漁るようになり、JVCという国際ボランティアセンターに通い始めました。そして、南アフリカ・チームに入り、会社が終わったらすぐにJVCへ。同僚は、そんな私を「変わっている」とは言いましたが、ためになる記事の切抜きを机に置いてくれたりしました。そんなふうにして約1年が経過し、その頃には、日本の縦社会の構造や男女差別にもうんざりしていたので、アメリカで社会学を勉強することを決意。JVCからも南アフリカに行くというチャンスがめぐってきそうだったのですが、ニューヨーク市立大学のリーマン・カレッジから入学許可をもらい、1994年にふたたび憧れのニューヨークへ飛んだというわけです。


アメリカの大学


大学でのエピソードを教えてください。

大学院に行くにはTOEFLが足りず、かといってそのためにESLには行きたくなかったので、大学から始めることにしました。しかし、ニューヨーク市立大学といっても、そのカレッジはブロンクスにあったので、行く前はとても怖かったです。領事館の人にも「やめなさい」と言われましたし(笑)。でも、いざ行ってみると、日本人がうじゃうじゃとあふれているではないですか。それまでは、生徒の90%を黒人やヒスパニック、カリビアンの移民が占めていたらしいのですが、1990年に閉鎖された同カレッジの広島校の生徒が本校に流れて来てしまったそうなのです。そして、とにかくクラスの登録をしようとしたのですが、なにしろ英語がわからなかったので大変苦労しました。そしてようやく取った最初のクラスは女性学の300レベル(大学3年生レベル)。もちろん、最初の授業はさっぱり理解できず、教授に「一昨日来たばかりで英語がわからない」と言うと、彼女は驚いて「このクラスは難しすぎるからやめなさい」と言いました。というのも、そのクラスの内容は非常にセンシティブな問題を扱うので、テープに録音することは許されず、耳で聞いてノートをとるしかなかったからです。でも、やめたくない一心で、毎日午前3時頃まで勉強し、午前6時から7時半に起きて学校へ行くという生活を送りました。苦労したのは、本を読むこと。細かな言葉の表現など、何度も読んでやっと意味がわかるという感じでした。しかし、そのおかげで、3ヶ月後には英語で普通にコミュニケーションができるようになりました。


生活面ではどうでしたか?

ブロンクスでの最初の数ヶ月は、大学の掲示板で見つけたシェアハウスに住みました。でも、当時そこに住んでいたのはESLに通っていた若い日本人。みんなとてもお金持ちで、買物やパーティーばかり、学部に入るテストに落ちつづけ、ずっとESLにいる・・・という感じでした。今でもまだいるかもしれません。よく、「弘子ちゃんは勉強のしすぎだ。すき焼きやるから遊ぼう」とか誘われましたが、私にはそんな時間はなかったので、毎日耳栓をして課題をこなしていました。
3ヵ月後、そんな生活環境から脱出するべく、マンハッタンに引越し。学校まで電車で40分でしたが、暮らしやすいところで文句はなかったです。それから大学の外で友達を作るようになりました。


就職

大学卒業後、最初に翻訳の仕事に就かれたそうですが。


大学4年生の時は好きな本をたくさん読んで過ごし、あまり就職活動らしいこともしませんでした。そんなある日、日本語新聞で見つけた翻訳というポジションに、友達からスーツを借りて面接へ。翻訳もやったことはなく、コンピュータ関係のことも知りませんでしたが、「できます」と言い、すぐに採用が決定。本当にラッキーでした。


それからウェブ出版という方面に入っていかれたわけですね。

その時の仕事では、Tech Wire Japan というニュース配信サービスを担当していて、テク ノロジー関係の記事を、毎日ウェブ・ページにして流すのが主。コンピュータに関して基本的なことはここで学びました。日本のコンピュータ関係は半導体関係が多くてまったく興味を抱けませんでしたが、インターネット関係はとてもおもしろかったのです。というのも、インターネットは技術だけではなく、コンテンツがおもしろくないと人は来ないし、アイデア・ビジョン・未来の計画をはっきりさせる必要があから。そして、Tech Wire Japan の編集長になってからは、日本とは違って、女性でもがんばった分、ちゃんと返ってくるものがあったので、とてもやりがいがありました。


フリーのライターに

それからフリーになるまでは、どのような経緯があったのでしょうか。

Tech Wire Japan は、AOL Japan や Nifty など様々なサイトに掲載されていましたが、その中の一つで、インプレス社の INTERNET Watch という人気オンラインマガジンがあり、そこの編集スタッフとシリコンアレー関連記事の連載を始めようということになったのです。そして、1998年末ごろから、隔週で1社ずつ連載を開始。そのころから他の雑誌にも書くようになり、昨年はずっとこの仕事をやっていました。


ドットコム企業

今年4月、そのインタビューをまとめた 『シリコンアレーの急成長企業』 (インプレス刊)を出版されましたが、ニューヨークのドットコム企業の特徴について教えてください。

ニューヨークの場合、1995年から1996年はベンチャー・キャピタルなんてありませんでしたから、資金調達が非常に困難でした。また、ニューヨークで多く見られるコンテンツ・サイトというものは、夢はあってもビジネスとして確立していくのは至難の技。従って、良い会社でも成功するのはほんの一握りで、5〜6,000社のうち、50〜60社しか成功しなかったのではないでしょうか。最近ニューヨークで企業を作る人たちは、2、3回目のスタート・アップのようです。


現在シアトルのドットコム企業を取材されているそうですが、その特徴などはありますか?

ニューヨークに比べ、シアトルはマイクロソフト卒業生が多く、ブロードバンドやストリーミング・メディア、データベースなどの技術インフラを開発する企業、またB2B企業が多いです。また、ベンチャーキャピタルのシステムが確立しているので、企画がよければお金が出ます。したがって、シアトルでは「お金をもらう」ということよりも、「どこからお金をもらうか」が大事なようですね。
ただし、私が取材するのは、新しい企業が対象です。例えば、askme.com、vitessa.com、keystroke.com、digiMine.com などがそう。これもインプレスのINTERNET Watchに連載し、今回は合計12社をインタビューしています。


長野さんがインタビューされるのは、CEOなどトップクラスの方々ですが、インタビューされるときのポイントなどはありますか?

話というのは順序がありますから、急がないことがポイント。また、流れをコントロールしようとするとうまく行かないようなので、自然に話してくれるのを待つことです。もちろんインタビューの前にリサーチはしますが、「私たちのミッション」や「会社紹介」という記載よりも、CEOの話を聞いたほうが、会社のビジョンがよくわかります。ですから、「なんでも教えてください」という姿勢で行くのが大事。そして、「どういうことをやっていますか」「どういうテクノロジーを使っていますか」と聞けば、そのあとはすらすらと出てくるでしょう。


ではニューヨークとシアトルでインタビューされたCEOで、それぞれ地域的な特徴はありますか?

忙しさの上では変わらないですね。みなさん数10分刻みのスケジュールで動いていますし、いつも投資家やクライエントに会いに出かけています。ニューヨークの場合、マルチメディア・広告・テレビなどメディア出身者が多く、多種多様。でも、よく言えば夢を持っていますが、「インターネットで一山当てよう!」という人たちも多かったです。一方、シアトルでは、最新システムを開発しようとする技術者タイプの人が多いようです。また、シアトルに対してコミュニティ意識が強いですね。そして、日系人が多いせいか、日本に対して理解があります。しかし、どちらにしろトップの座にいる人たちに共通しているのは、身を粉にして働くという点でしょう。給料もそこそこ、休みはなし、ゴールに向かって一生懸命。特に、設立者でCEOを務めている人は、会社に対する情熱があります。よく働いて、企業の売上や設立から今にいたるまで、経過の詳細を覚えています。そういう企業は成長しています。これまでカリスマ性を感じたのは、Double Click の Kevin O'conner 氏や、Sonic Net の Nicholas Butterworth 氏でしょうか。一方、トップだけが多額の給料をもらっているような企業は長続きしないようです。


最後に長野さんのこれからの抱負を教えてください。

年内は、シアトルのドットコム企業についての連載を続けること。そして来年は日本の若者のカルチャーを題材にしたドキュメンタリー映画を作り、サンダンスなどの映画祭などに出品したいと思っています。アメリカの若い人たちはわりと日本のことを知っていますが、まだまだ知られていない日本はたくさんあります。それを世界に紹介したい。今はもうこの2つのことしか考えられません。その後のことはそれから考えます(笑)。


ありがとうございました。シアトルのドットコム企業についての本を楽しみにしています!


 
1970年
熊本県に生まれる

1988年
熊本大学法学部入学

1990年
大学の企画で初めてアメリカへ。「ここが私の住むところ」と強烈に感じる。
この後 、1994年まで毎年ニューヨークへ旅行する。

1992年
東京で就職。ボランティア活動も。

1994年
ニューヨーク市立大学入学。五度目の渡米。

1996年
ウェブ出版社に就職。

1998年末
シリコンアレーのドットコム企業についての連載を開始。フリーに。

1999年末
シアトルへ引っ越す

2000年4月
『シリコンアレーの急成長企業』をインプレスから出版。
2000年5月 5月17日調べのYahooビジネス本ランキングで、8位に!

長野さんのNYドットコム企業インタビューをまとめた『シリコンアレーの急成長企業』
(2000年4月 インプレス社)

著書と。本棚にはいろいろなジャンルの書籍が並んでいます。

※1 ブラック・パンサー
急進的黒人解放組織

※2 マルコムX
黒人解放運動の指導者。1965年に暗殺される。

※3 スティーブ・ビコ (Steve Biko)
反アパルトヘイトの運動を、「まず黒人の心理的解放を」と唱え「南アフリカ学生機 構」を結成。しかし、1977年、南ア政府によって拘束され獄死した。


長野さんのホームページ

以下は長野さんが毎日チェックするサイトです。

レッドヘリング

ザ・スタンダード

アップサイド


CNet


ZDNet


HotWired


順序良く、そしてわかりやすくインタビューに応えてくださった 長野さんは、やはりインタビューのプロ。そして、ジャングルにとってはインターネットに関する情報の宝庫的存在です シアトルのCEOインタビューが本になるのが楽しみ!これからのご活躍を応援しています。

シアトル発インターネットビジネス最前線』 は、 Internet Watchのウェブでご覧いただけます。


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