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シアトルの南東約15マイルのところにあるケント市は、白人が初期に入植した地域の1つ。エリオット湾がドュワミッシュ・バレーまで続いていた数千年前、現在のケント市は水深数百フィートの海に面していましたが、紀元前3600年ごろにレーニエ山が山頂2,000フィート付近から崩れてホワイト・リバーの流れが変更。このおかげで沖積層に埋め尽くされたバレーは、1800年代に白人の開拓者が入植した頃には、農業に最適な肥沃な土地となっていたのです。
■ ネイティブ・アメリカン
現在のケント市は、ネイティブ・アメリカンが何百年にもわたって漁業・狩猟・ベリー採取を行ってきた土地所でした。多くのネイティブ・アメリカンは最初でこそ白人の開拓者たちを交易の相手として歓迎しましたが、その数が増えて川にアクセスできなくなると、快く思わなくなりました。1855年に土地の用途に関する条約が両者の間に結ばれましたが、ホワイト・リバー族は北部の土地への移住をなかなか承諾せず、同年10月27日にシアトル・インディアン戦争と呼ばれる戦争が勃発。しかし、開拓者側の軍隊が介入し、数ヵ月後にはネイティブ・アメリカンが退却して戦争は終結しました。その後、キング郡内では唯一のインディアン居住区マックルシュート居住区の設置を約束する新たな条約が結ばれ、ホワイト・リバー族はマックルシュート族として知られるようになりました。
■ 産業の歴史
その後、開拓者らは農業を拡大し、じゃがいもやタマネギなどの野菜を生産するようになりました。そして、ビールの原料となるホップの栽培が急成長し、多数のホップ長者が誕生。1891年にはアブラムシ(aphids)の大量発生でホップは壊滅しましたが、このホップ産業が初期のケント市の成長を促したのは言うまでもありません。その後、1899年に設立されたコンデンス・ミルク製造会社カーネーション・ミルク・カンパニーが急成長。20世紀に入った頃にはケント市内には銀行・学校・教会・ショップ・新聞社・社会団体など地域の成長に必要とされるものがすべて揃いました。1907年8月17日、ケント市の農家などが農産物を消費者に直売するパイク・プレース・マーケットを開店。1920年代にはレタスの生産が盛んになり、ケント市は
"Lettuce Capital of the World" と呼ばれるようになりました。
■ 日系移民
日本から移住してきた日系移民の一世は、米国市民から土地をリースし、農業などに従事しました。その生産高は、1920年頃にはシアトルで消費されていた新鮮な牛乳の50%、ワシントン州西部の果物と野菜の70%をケント・バレーに住む日系一世が扱うまでに成長。1934年にはレタス・フェスティバルが開催され、2万5千人が参加しました。しかし、第2次世界大戦が勃発し、米国政府は1942年5月8日から日系人を強制収容所へ送還。戦争が終結した後も日系人に対する差別などもあり、戦後にケント・バレーに戻ってきた日系人は少数にしかすぎませんでした。
■ 戦後のケント市
1965年、ボーイング社がケント市にAerospace Center を建設。1970年にはレタスが栽培されていた土地にThe Apollo
Moon Buggie が設立され、その他にも多数の会社が倉庫や製造所を進出しました。1980年代にはハイテク企業が進出し、21世紀になってからは巨大な倉庫が立ち並ぶようになりました。また、住宅地としても利用が高まっており、たくさんのアパートや一戸建て住宅が立ち並んでいます。
情報提供: Historylink.org
▼ City of Kent
www.ci.kent.wa.us
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